為末 大 氏プロフィール
ハイクラス転職のクライス&カンパニー
公開日:2020.10.16
Interview
僕は広島の出身で、3人兄弟です。8才の頃から自分の足がすごく速いのではと思うようになり、友達が自転車で公園に行くより僕が走って行く方が速いこともありました(笑)。広島は野球が盛んですが球技はあまり得意ではなく、小学校から陸上を始めました。中学校でも陸上部に入って3年生の時に全国1位になり、高校でスランプに陥り3年生の時に100mから400mハードルにスイッチして、その後オリンピックへという道程ですね。
そうですね。100mの足の速さは才能です。散々「努力が大事だ」と言いますけど(笑)。もちろん才能のある人ばかりが集まるので、その中で、最後は努力や工夫になりますが。
シンプルに言うと、走るという行為は片足ジャンプの連続なんです。人間の足は体重が乗っかったときにギュッと固めるとバネみたいに力が溜まる。そこからポンと前方に跳ね返すのが短距離です。これを斜め上に跳ね返すのが幅跳びですね。ゴルフボールみたいにコンコン跳ねる選手は短距離に多く、もう少し柔らかくて飛距離が長いと幅跳びの選手になります。僕はちょうどその中間くらいで、スプリント(短距離)も幅跳びもいけるけれど、ちょうどハードルのバネの感じがピッタリ合っていたということです。
私自身が思う自分と、私の母親から見た私と、友人から私がどう見えるかという視点がちょっとずつ異なっています。最近、小学校時代の友人に「昔の俺ってどうだった?」と聞いたら、「とにかく元気でクラスの中心人物だったね」と。一方で、私の母親は「とにかく繊細だった」と言います。私の視点は、友人と母親に言われた面が両方ある気もしつつ、とても人の気持ちを考えることが多かったなと。これは良い意味だけではなくて、人の気持ちの裏をかくことも含めてですが。人の気持ちや心について考えたり、そういうことが書かれている本を読んだり、国語の教科書で心理描写の部分が楽しかったりという感じでしたね。友達と遊んで家に帰る途中に、「あの時あの子がこういう感じだったのは何でなんだろう」「自分がこう思ったのは何でなんだろう」と考える傾向が強かったように思います。
以前、広島で講演をした時に小学校時代の先生が来られて、当時僕が書いた作文を持ってきてくれたのですが、読んでみると文字や言い回しは子供っぽいものの、「僕のおばあちゃんが被爆者で、原爆を落とした側と落とされた側がいてどちらも同じ人間である」と。もしこちらの立場で生まれていたら恨まなかったのか、逆の立場だったら恨まれなかったのかということについて書いている。ずっと人間のそういう部分について興味があったのだろうと思います。そこも繊細さにつながる部分だったような気がしますね。
この業界ではタレントのような活動をするときに事務所に入るのですが、私も事務所に入っていました。個人の会社をつくって売上を入れ、自分に給料を払っていました。引退して少し経った時に、自分が社会のことをあまり分かっていない感じがして、それではダメだなと。大きな分岐点だったのは「会社に人を雇うかどうか」という点で、人を雇わずに箱だけつくっておけば楽なのですが、人を雇ってスタートしたのが2013年くらいでした。その会社を4~5年やったものの、一時期は社員が10名くらいまで増えたのですが、私のマネジメント能力が不足していたこともあって、事業を行っている部門をDeportare Partnersに移し、私のマネジメントのみ元々の会社に残して、社員も半分になりました。
当時は人が増えるとはどういうことかを分かっておらず、マネジメントが何かも分かっていない状態でした。自分の中で一番大きな問題だったのは、構造をつくることもせずに人や組織が動くと思っていたところです。誰が何を管掌しているのかもよく分からないままで、とりあえず人を集めてあとはよろしくという形だったので、当然社員も戸惑いますよね。結果として会社がうまく回らなくなって、たくさんの人に迷惑をかけました。
1つは100mからハードルに移る時ですね。実は中学生の時のチャンピオンでオリンピックに出た選手は僕の前には一人もいないです。典型的なパターンなのですが、中学チャンピオンは早熟で、高校や大学でダメになってしまうんですね。僕は100mをやってきてダメになった時にハードルに活路を見出して生き残ったパターンなので、そこの変化は運が良かったなと。もう1つは、1つ目のメダルを獲った後です。一度結果が出た後にうまくいかず引退するのもよくあるケースなのですが、その時にプロになって2回目のメダルにつながったこと。この2つはピンチだったと思います。引退後については「自業自得」という感が強く、自分で全部やって失敗したりもしているので、トライ&エラーで学習してきている気がします。
典型的な早熟型だったため、100mでいくら頑張ってもタイムが伸びなくなってしまい、1~2年くらいはただのスランプかと思っていたものの、本で読んだ論文からそうではないと自覚し、最終的に嫌々ながら400mに行ってハードルに移りました。ここで一番しんどかったのは、これまで自分に当たっていたスポットライトが1個下の才能ある後輩へ当たるようになったことです。しかもその子が良い奴で友達でもあるという(笑)。何か釈然としない感じがありハードルに移ったのですが、その時は「これで頑張るぞ」というよりも生き残れる方法に縋り付いた感覚でしたね。希望を持って移ったのではなく、これなら何とかなるかもしれないという感じでしょうか。陸上競技は100mにほとんどの才能が集まり、その後分解していく流れなので、「王道ではない道に自分は行く」という。そこでモチベーションがそれまでとは変わって、「そっちに行くからには結果を出すしかない」と思ったのです。
根底には「今に見ていろ」という気持ちがあり、ケガがなければという思いもあったのですが、結局どれだけやってもうまくいかない。高校3年生の時は万全の状態で臨んだのに後輩に負けてしまったので、抜かれ方からしてこの後もう追いつけないのではと思いました。スポーツドラマだと、そこから頑張って逆転するじゃないですか(笑)。でも、この感じは絶対追いつかないよね、と。最後は400mハードルで優勝して国体に出てみると、100mのときはすごく軽いチェーンを漕いでいる感じであまり気持ちよくなかったのに、400mハードルになって初めてギアが上がった感覚があり、頑張って漕がなくてもスピードが出てハマった感じがして、「あ、これは自分の力が発揮できそうな気がする」と。そうやって徐々にハードルに移っていくわけですが、それでもかなり燻りながらでしたけどね。
はい。国体でも優勝しまして、100mに比べればすごい速さで結果が出ましたね。ある程度そこでハードルに気持ちは切り替わったのですが、「でも王道じゃない」という(笑)。番組表で言うと、最後はやっぱり100mの決勝ですよね。一方で、これならもしかして世界でやれるかもという希望もあったので、社会的評価とやれる感の間で揺れた結果、最後はやれる感じがする道を採ったということですね。
そうですね。むしろ好き嫌いに拘るタイプだったと思いますが、その瞬間に自分で何かを折った感覚があり、「好き嫌いに拘るのをやめてニッチで勝てる道をいく」と決めた感じでした。高校3年生で国体優勝した後に初めて日本代表に呼ばれて、合宿に参加した際に高野進さんから面談で「2000年のシドニー五輪で、あなたは何をしていたいですか?」と聞かれ、僕は「400mハードル」と即答したので、その時点で既にそういうモードに入っていたのでしょうね。
それは、うじうじする自分に対する自覚があってそうしているのかもしれません。引退した時も翌日に自宅の陸上の道具をすべて箱に詰めて送りましたね。奥さんに言わせると、「時々色々なものを一気に捨てるクセがあるよね」と(笑)。
構成:
神田昭子
撮影:
櫻井健司
※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。
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