ハイクラス転職のクライス&カンパニー

これまでの人生で大きかった選択肢は何か。自身のアイデンティティを見つめ直すことで、本当になりたい自分が見えてくる。

公開日:2021.06.11

絹織物の産地である京都・丹後の地で、昭和11年の創業以来丹後ちりめんの製織販売を行ってきたクスカ株式会社。「昔の織り技法で今のライフスタイルを」をコンセプトに、2010年2月より"伝統・ファッション・芸術"を融合させたブランドKUSKA(クスカ)を立ち上げ、手織りのネクタイなど紳士服飾雑貨をメインにコレクションを展開。近年はフィレンツェやロンドンなど海外進出も進んでいる。同社の三代目社長である楠泰彦氏にお話を伺った。
楠泰彦氏のプロフィール写真

楠 泰彦 氏プロフィール

クスカ株式会社 / 代表取締役

京都・丹後生まれ。中・高校と明徳義塾で野球に明け暮れ、その後、東京の建設会社に勤務しながら世界中にサーフトリップに出かける。30歳で家業の織物業に入社し自社ブランドKUSKA(クスカ)を立ち上げると共に、唯一無二の手織りのネクタイを百貨店や大手セレクトショップ・自社店舗で販売。2017年からイタリアで行われる世界最大のメンズ服飾展示会に3年連続で出展し、ロンドンの店舗でもネクタイを展開。また、地元、京都・丹後に特化したWEBメディアTHE TANGO(ザ・タンゴ)を2018年から運営。趣味は丹後の海でサーフィン。

Message

志あるハイクラス転職を、クライスと クライス&カンパニー

Interview

15年ぶりの帰郷で見た、素晴らしい丹後の海と寂れた家業。自らの手で現状打破を決意。

15年ぶりの帰郷で見た、素晴らしい丹後の海と寂れた家業。自らの手で現状打破を決意。

丸山
楠さんの幼少期や学生時代のお話を聞かせていただけますか?

僕は京都・丹後の生まれで、丹後ちりめんの製造で多忙な両親に代わり、祖父母に育ててもらいました。当時は工場も24時間近い稼働で活気がありましたね。小学校では少年野球の4番・ピッチャーで、学校でも野球でも大黒柱的な存在でした。

中学からは地元を離れて高知の明徳義塾に行ったのですが、自分よりも体格も良くすごい人たちが全国から集まっていて、己の実力を思い知りました(笑)。それでも甲子園を目指して一途に野球に打ち込んでいましたが、高校3年生の夏に甲子園に出られず引退して。スポーツ推薦枠で六大学からお声がけがあり初めて東京に行き、街や人のすごさに圧倒されました。

田舎育ちで野球しか知らなかったけれど、東京には自分が想像もつかないような未来がある。「このまま野球を続けていては東京の拓かれた未来に飛び込めない、野球ではない生き方をしたい」と強烈に感じて、結局その誘いは断り別の大学に進学しました。

丸山
初めて上京した時のそのお気持ち、よく分かります。1つの大きな転機でしたね。

大学ではお金も無いので建設関係のバイトをしていましたが、友人に誘われて湘南へサーフィンに行ったのがきっかけで、すっかりハマってしまって。

サーフィンはカッコいいというイメージでしたが、いざやってみるとなかなかできない。野球はあんなにできたのに…という思いからのめり込み、夜は建設のバイトで昼はサーフィンという生活を続けるうちに授業にも出られなくなりまして(笑)。大学は中退してそのままバイト先に就職しました。

丸山
当時はサーフィン優先の生活だったのですね。

野球に注いでいた情熱が一段落して、サーフィンに移った感じでしたね。日本全国や海外など様々な地域にサーフィンをしに行く中で、ある時「丹後でサーフィンができる」という雑誌の特集を見て、こんなにも夢中になっていることを生まれ育った地元でできるとは知らず、本当にびっくりして。

中学から15年間地元を離れていたのですが、サーフィンがてら帰省することに。それが28才の時ですね。

丹後の波を満喫する一方で、両親と高齢のパートさんだけで細々と稼働する実家の工場の疲弊した現状を目の当たりにした時に何ともやりきれない気持ちになって。この現状を打破するために自分が何かできないかなと。

丸山
28才の頃は、誰しも仕事やキャリアに漠然とした不安を抱える時期ですよね。

自分も将来に向けて新たなステップが必要だと感じていましたし、家業を何とかしなければという思いも強かったです。これまで経営を学んだことも独立を考えたことも無かった自分に何ができるかを模索した結果、地元で一から勉強しようと。

29才の時に10年過ごした東京を離れて地元に戻りました。両親は衰退産業なので子供に跡を継がせる気も無く「やめておけ」と言われましたが、僕が反対を押し切って家業に入った感じですね。

生き残りを賭け、「手織りでつくる」「自社ブランドの確立」という大胆な2大改革を敢行。

生き残りを賭け、「手織りでつくる」「自社ブランドの確立」という大胆な2大改革を敢行。

丸山
実際に家業に入られてみて、いかがでしたか?

それなりに売上はあるかと思っていましたが、想定以上に厳しい状況でした。そもそも着物や織物について何も知らなかったので、昼間は座学で織物を学べる研究所に通い、夜は家の工場で実地経験を積むという基礎固めの期間を2年ほど過ごしました。

その頃、着物というプロダクトで勝負するのは厳しいため、アプローチを変えていかなくてはと2大改革を決意しまして。大量生産をやめて手織りでつくることと、既存の問屋経由の流通をやめて直接販売することです。

丹後の組合で中国に視察に行く機会があり、最新設備で大量生産している現場を目の当たりにして、これは絶対かなわないなと。独自性を出さないと生き残れないと感じて、工場の機械をすべて処分しました。

ちょうど北京五輪の年で鉄の価格が高騰していたので、自分で機械を解体して鉄くずを売り、多少の資金を得て手織り機の第1号を自らつくりました。

これは建設関係の仕事をしていた経験が活きましたね。鉄の価格の相場も知っていましたし、木を削り設計するのは家をつくるよりも遥かに簡単なので。

丸山
とは言え、かなり大胆な決断だったと思いますが。周囲からの反対もあったのでは?

両親は元々廃業予定だったので「好きにしたらいい」と。ただ、他の人達からは変な奴だと思われていたでしょうね(笑)。

当時の僕は経営知識が無かったからこそ、自分の気持ち先行でできた決断だったと思います。ある程度ビジネスを学んだ方なら、そんな経済合理性の無いことはしませんよね。

ただ、今の家業をそのまま続けていくのは無理だとわかっていたのでこの決断をして、もし1~2年でダメなら事業縮小や廃業も覚悟していました。

丸山
そこまで覚悟されていたのですね。流通の仕組みを変えたお話もお聞かせください。

着物の流通は非常に複雑で、丹後産地でつくった生地を京都の染屋さんに、染屋さんが染問屋さんに、その問屋さんが小売に…という何重もの複雑な構造で卸していくのですが、昔はそれで良くても今は流通を抑えないといけない。

最初は洋服や鞄の生地として流通させようとしていましたが、問屋さんにおさめるので我々が求める価格より大幅に下がってしまう。これはちょっと違うなと感じて、自分でプロダクトをつくって販売していくスタイルにしようと決意し、2010年に「KUSKA」という自社ブランドを立ち上げました。

丸山
プロダクトをネクタイにしたのは、やはり美しさが一番表現できるからですか?

我々のテキスタイルを織物で一番表現できるのがネクタイでした。洋服などは機能性が重視されるので、美しさが一番表現できるのは何だろうと考えたときに、自分も男性ということでメンズのプロダクトとしてはネクタイかなと。

当社ではマーケットも意識しますけれども、プロダクトアウトで我々の想いを届けていこうというスタイルです。

丸山
自分たちの技術が最も活きるものを世に出していくのが基本ということですね。

初めの5年間は売上も立たず厳しい状況でしたが、2013年からユナイテッドアローズに取扱いをいただけるようになったのが大きな転換点になりました。営業の経験も無かったのですが(笑)、友人の営業に同行させてもらいながら徐々に覚えて。

丹後ちりめんのものづくりは非常に丁寧なプロセスでできていて、プロダクトの質には絶対の自信があったので、あとはどう売っていくかだと思っていました。

その後、和光にも置かせていただくことになり、国内で一定のマーケットを確立した後は海外へも広げていきたいとイタリアの展示会(PITTI UOMO)に参加し、そのご縁でロンドンのハンツマンとも取引を開始しました。

丸山
伝統工芸は、技術は素晴らしいもののデザインで躓くケースが多い中、貴社の製品は全然野暮ったさが無い。当初からデザイナーを入れる等、意識していたのでしょうか?

実はデザイナーはメンズに関しては入れていません。デザイナーの方はテキスタイルがある上で表面にデザインを乗せていきますが、我々は素材自体にデザインを入れていくイメージなので、アプローチが異なります。

機を織りながら1人1人の職人がデザインしているので、「デザイナーができないデザイン」というのが正しい表現かもしれません。

サーフィンあっての仕事、仕事あってのサーフィン。両方の相乗効果で人生を豊かに。

サーフィンあっての仕事、仕事あってのサーフィン。両方の相乗効果で人生を豊かに。

丸山
楠さんの人生で、他にも何か転機になった出来事はありますか?

結婚して子供が生まれてから、子供が生まれ育つ環境として地域自体をもっとブランド化できないかと考え、【THE TANGO】というWEBメディアをつくりました。自分の生まれた場所は否応なく自身のアイデンティティとして残るものなので。これも私にとっては1つの転機ですね。

オーソドックスな観光ではなく、それぞれのパーソナルな部分を取材して、海・食・伝統にフォーカスした記事をメディアに掲載することに加え、丹後に特化したプロダクトをつくってブランドを発信しています。

丸山
なるほど。これまでお話を伺っていると、やはり28才の時にサーフィンがきっかけで地元に戻り、家業への使命感も生まれたことが大きな転機と言えそうですね。

そうですね。サーフィンを続けながら仕事もできるというところにずっとフォーカスしてきたように思います。今も朝の4時に家を出てサーフィンに行くのですが、海に向かう道中で仕事について頭をフラットにして考えられるのは貴重なひとときとなっています。

丸山
丹後に戻ったのは、サーフィン三昧で仕事もできるという動機もあったのでは?

はい、正直に言ってそれはありましたね(笑)。サーフィンができても仕事が全然ダメだったら当然サーフィンも続けられなくなるので、その相乗効果は大きかったと思います。

先ほども言いましたが、やはり僕が経営やビジネスを学んでいなかったからというのはありますね。しっかり経営の知識を学んでから独立する方のキャリアにも憧れますが。アプローチが違ったので、出口も違ってきたということかなと。

丸山
それは楠さんにしかできなかった決断と言えそうですね。イノベーションを興すにはこういう人が必要なのだと今日お話を聞いて強く感じました。最後に、読者に何かアドバイスをいただけますか?

僕はアドバイスができるような立場ではありませんが(笑)。自分を知ることによって本当にやりたいこと、やるべきことが見えてくるのかなと。

それは10代・20代ではわからなくて、30代前半くらいから自分のアイデンティティを見つめ直すことによって、本当になりたい自分が見えてくるように感じます。経験豊富で選択肢が多い人ほど、実は選択できないものだと思いますが、振り返ってみると自分にある選択肢の中でこれが一番大きかったというのが結果的に自身のアイデンティティになると感じていて。僕の場合は選択肢が少なかったので、アイデンティティが単純明快で見えやすかったのかなと思いますね。

あとは、サーフィンなどモチベーションが上がることを仕事とは別に持っていると力が湧いてきて、生活を楽しむと同時にビジネスも楽しめると思います。

構成: 神田昭子
撮影: 櫻井健司

※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。

TURNING POINTの最新記事をお届けします。

other interview post

ページ上部へ戻る
CLOSE