ハイクラス転職のクライス&カンパニー

起伏の無い順風満帆の物語などつまらない。ピンチの時こそ、ニコッと笑って前向きに。

公開日:2023.08.02

尾州・岐阜羽島にて130年以上にわたり織物・編み物などの衣料向け繊維素材の企画・製造を行い、世界で認められるメイド・イン・ジャパンの生地を生み出し進化を続けている三星グループの5代目社長、岩田真吾氏。岩田氏のこれまでのキャリアの歩みやターニングポイント、精力的に多方面で活動されているエネルギーの源泉についてお話を伺った。
岩田真吾氏のプロフィール写真

岩田 真吾 氏プロフィール

三星グループ / 代表

1981年生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒。三菱商事株式会社、ボストン・コンサルティング・グループを経て2009年、三星毛糸株式会社・三星ケミカル株式会社入社。2010年、三星毛糸株式会社代表取締役社長就任。2015年、三星ケミカル株式会社代表取締役社長就任、2016年一宮商工会議所議員就任。個人として、2018年よりフィンランド・サウナ・アンバサダー就任。

Message

志あるハイクラス転職を、クライスと クライス&カンパニー

Interview

物語をつくるのが好きだった子供時代。18才で上京し、リーダーシップが芽生える。

丸山
初めに幼少期の頃のお話から伺いたいのですが、どんなお子さんでしたか?
岩田

生まれは愛知県の一宮市でして、姉が二人いる末っ子長男です。幼い頃から周囲に「お前が跡継ぎ息子だぞ」と言われ続けていて、自分でもそういうものかと特にプレッシャーも感じることなく育ちました。物語をつくってガンダムの人形で一人遊びするのが好きで、あまりに声が大きいので隣の部屋にいる両親が驚くぐらいでした(笑)。

読書も好きで、勉強もそこそここなしていましたが、学級委員や生徒会長などには興味が無く、普通の子供だったと思います。面白いエピソードと言えば、東海高校の指定校推薦で慶應義塾大学を受けるもまさかの面接で落ちてしまい、慶應リベンジしようと猛勉強して現役合格したことくらいでしょうか。

私のリーダーシップの芽生えは親元を離れた18才の時であり、その後地元に戻るまでの9年間の東京生活が私の独立期かなと位置付けています。

丸山
そうなんですね。東京で生活されていた時期は、どのようなことがあったのですか?
岩田

大学では律法会という法律のディベートサークルに入り、学年代表を決める選挙があって、周囲から「真吾がリーダーをやったら?」と言われたことで初めて「自分がリーダーをやっても良いんだ」と自覚しました。

それから、地方の田舎で育ち「家業の跡継ぎになる」と何の迷いも無く思っていた自分が、東京に出て様々な人と触れ合い、インターンシップに参加したり、他大学の含めて学生を集めるイベントを手掛けたりという刺激的な日々を過ごす中で、世の中には跡継ぎ以外にも色々な選択肢があることを知り、一気に視界が開けたんです。

大学卒業後は、新卒で三菱商事に入りました。父親からは「せっかくよその会社に行くなら三菱商事のような立派な会社に行け」と言われていたので、内定を獲った時すぐに父親に電話して「三菱商事に行くことにしました」と告げると「わかった」と。その時父親は母親に「真吾はもう戻ってこないかもしれないな」と言っていたらしいです。

三菱商事では、2年間猛烈に働きました。今思うと若気の至りですが、当時は10年後の自分の姿が想像できてしまって「もっと早く自分で責任を持ってやりたい」という気持ちが高まり、ボストン・コンサルティング・グループ(以下、BCG)へ転職しました。

自分は結構仕事ができるつもりで入ったら、完全に打ちのめされまして。現在ベインキャピタルのパートナーである末包昌司さんや、BCGでManaging Director & Senior Partnerを務めておられる高部陽平さんに鍛えていただいたことは、今でも感謝しています。めちゃくちゃ厳しかったですが(笑)。

その後、アソシエイトからコンサルタントへプロモーションも果たすことができ、やはり自身が経営する側に回りたいと強く思うようになって。その時に思い出したのが、「自分には地元の100年企業の跡継ぎというオプションがある」ということでした。

これは儲かる・儲からないの軸ではなく、社会的インパクトも含めて面白いのではないかと思い、27才で地元に戻ることを決意しました。

丸山
いつかは家業を継ごう、あるいは経営者になりたいと思っていたのですか?
岩田

東京生活の9年間は物理的にも離れていましたし、親からも戻ってこいとは言われなかったので、東京での仕事が楽しくて家業のことは忘れていたというのが正直なところですね。ただ、漠然とながら経営者になりたいとは考えていました。

27才で地元に戻ることを決意できたのは、BCGで一定自信がついたことで、もし失敗しても最低限家族を食べさせていけると思えたことも大きかったですね。元々、30才を目途に経営者になりたいと考えていたので、今戻れば3年で事業を一回しする期間という意味でもちょうど良いと思ったんです。

周囲の人達からは、「なぜピカピカのキャリアを捨てて地方の名も無き家業を選んだのか」と当時よく言われましたが、自分としてはむしろこういうキャリアだからこそ、それが最も活かせるのは地方の中小企業だろうと思っていました。

繊維業界の苦境は想像以上だった。コロナ禍が、使い手と創り手を繋ぐ場を生む転機に。

繊維業界の苦境は想像以上だった。コロナ禍が、使い手と創り手を繋ぐ場を生む転機に。

丸山
地元に戻ってお父さんは喜ばれたでしょうね。当時、会社の状況はいかがでしたか?
岩田

父親は嬉しかったのかもしれませんが、私には見せないですし、ここは親子間で記憶が食い違っているところでして。

私は、父親から「大事なことは自分の意思で決めるべき」と言われていたので親から言われて戻るのは絶対ダメだと思って自分の意思で戻ることを決めたのですが、なぜか父親は「俺が『戻って来い』と言ったからあいつは戻ってきたんだ」と言っているようです(笑)。

私が2009年に地元に戻った当時はリーマンショック直後のタイミングでもあり、業績は想像以上に悪かったですね。グループ全体では樹脂や不動産等複数事業のポートフォリオを組んでいるので黒字だったものの、繊維事業は赤字でした。それで、何とかしなければとKPIを色々分析して毎週営業会議で詰めるということを続けていたら、翌年業績は一応横ばいは維持できたのですが、従業員の皆の顔色はどんどん悪くなっていって。「一体俺は何のためにやっているんだろう、『言うは易く行うは難し』は本当だな」と痛感しました。

それならば一緒に汗をかこうと。海外に出なければという思いもあって、自分も商社にいて英語もそれなりに話せたので、スーツケースに生地を詰めて海外の展示会に出ていき、現場のお客様に向き合うことを着実に1つ1つやっていこうというモードに切り替わった感じでしたね。

丸山
2012年のプルミエール・ヴィジョン・パリへの出展も大きかったのではないですか?
岩田

この10年間で、何も無かったところからスタートしてLVMHグループを始めとする世界のトップブランドに当社の生地を選んでいただけるようになったのは大きかったですね。

今は合成繊維が全世界の繊維生産の6割以上を占めると言われる中で、当社では全コレクションの95%ほどがウール100%の生地なんです。他社と差別化していく上では中途半端なものづくりをしても仕方ないので、「世界で一番黒い色をつくろう」ということで銀座英國屋さんの黒礼服地「漆ブラック」を開発する等、ものづくりにはこだわっています。

それを理解してくれるお客さんとなると、自ずとラグジュアリーブランドになる。もっと数多く売れたらという思いももちろんありますが、当社の社員が「一人一人の職人が誇りを持って働ける工賃を払いたい」と言っていて、私も本当にそう思っていますので、そこは歯を食いしばって続けているところです。

衣食住で一番人間が長い時間触れているのは衣であり、服との関係性を変えていくことで皆さんがもっと良い生活を送れるようになったら良いと思いますし、サステナブルにもつながりますよね。

ただ、そんなことを服を楽しく買いたい時に真面目に語られても嫌だと思うので、2020年から「ひつじサミット尾州」を開催しています。これは海外の10月最終土曜日と日曜日に開催されるHug a Sheep Dayというイベントにちなみ、尾州地域の各工場や飲食店を周りながら工場見学やワークショップ、買い物や飲食などを通して「持続可能性」を体感していただくという、使い手と作り手を繋ぐイベントです。

初回の開催時はオンライン参加も含めて延べ約15,000人にご参加いただき、今年も10月最終土曜日と日曜日に開催予定です。我々の製品をつくるまでにこれだけ職人たちの手間がかかっているとか、こういう技術を使っているということを皆さんにイベントを通じて楽しく知っていただきたいと思っています。

丸山
ブランドとは、ストーリーですよね。最近は三星グループの枠を超えて尾州地域へという活動の拡大があると思いますが、岩田さんのリーダーシップの視座の変容を感じます。
岩田

おっしゃる通りです。私のターニングポイントは大きく3つあり、1つは18才で親元を離れたこと、2つ目は27才で東京生活に区切りをつけて地元に戻ったこと、3つ目は2020年にコロナ禍によって自分のリーダーシップが「自社をいかに尖らせるか」から「自社の枠を超えて地域全体で皆と一緒にやっていく」という形へ180度転換したことです。

三星グループとして海外進出や自社ブランドをつくることに集中していた時期には他社と一緒にやろうという考えはほとんど無く、繊維産業は非常に厳しい中で従来のやり方では存続していけないから、あまり地域と馴れ合ってはいけないと思っていたんです。

ただ、2020年にコロナ禍になって、当社のような織る会社は染める会社や糸をつくる会社と繋がっていかなければいけないと頭では理解していたものの、このままでは他の会社が本当に潰れてしまうのではと心で理解した感じでした。

自分たちが一番星になって地域全体に波及効果として広がっていけば良いと思っていたけれど、それでは間に合わないなと。これは本当に頭の中でパチンと音が聞こえたぐらい、明確にスイッチが入った瞬間でした。

自社だけでは成し得ないことを、皆で達成できたら。ピンチの時こそニコッと笑顔で。

自社だけでは成し得ないことを、皆で達成できたら。ピンチの時こそニコッと笑顔で。

丸山
先ほどの地域のお話の他にも、アトツギ×スタートアップの活動もされていますね。
岩田

産業の壁を飛び越えた活動も始めています。これまでアトツギのコミュニティとスタートアップのコミュニティは交わってこなかったという問題意識から、「想いに火をつけろ!」をテーマに、2022年に『アトツギ×スタートアップ共創基地 TAKIBI & Co.【タキビコ】』をスタートしました。

私はいずれのコミュニティにも深く縁があったので、アトツギとスタートアップが「マッチングではなくクロッシング」を通して新しい価値を共創するセミクローズドなコミュニティができれば、両者が連携して事業開発や資本提携も含めた新シビジネスモデルを競争環境の少ない地方から興していくチャンスがあるのではないかという仮説を持ったことが発端です。

自社オフィスの遊休スペースを使ってアトツギとスタートアップを集めたイベントを実証実験として9回ほど開催しました。参加人数を増減してみたり、お互いに戦わせるピッチバトルや悩みを相談し合うお悩みピッチを行ってみる等、試行錯誤を重ねています。官民連携なども進める中で、延べ300人以上が集まる良質なコミュニティができつつあります。

私が今後TAKIBI & Co.に期待することとしては、アトツギとスタートアップが連携して新しいビジネスが色々と生まれてきたら良いなと思っています。将来的には皆でファンドをつくろうという展開になるかもしれませんし、各地域に私のような尖ったアトツギがどんどん出てきて全国へ拡大していくというのも面白いですね。

もう少し抽象的なビジョンとしては、アトツギとスタートアップがクロッシングしていくことで日本がもっと元気になることを目指しています。日本ではスタートアップは約1万社と言われていますが、アトツギ企業は350万社以上。

ここが変革していくと大きな社会的インパクトが生まれると思います。これは三星グループだけではできないチャレンジです。共創パートナーの皆さんと一緒に達成できたら面白いとの一心で、今はこの活動に取り組んでいます。

丸山
素晴らしいですね。三星に関しては、今後どんなビジョンを描いておられますか?
岩田

サステナブル経営が我々の中核だと思っています。自社はもちろん重要ですが、地域社会や地球環境が無いと崩れ落ちてしまうものなので、地域や地球環境を大事にするのは結果的に自社のためなんだという考え方ですね。今後更に人を採用してしっかりものづくりを継続していき、国内に加えて海外でも売っていきたいと思っています。

また、樹脂をつくっている三星ケミカルという会社ではリサイクルに注力しています。元々行ってきた色をつけるコンパウンド工程がリサイクルに転用できることに気づき、中堅若手リーダーたちと新事業を立ち上げました。現在、様々なお客様からお声がけをいただいているので、昔からあった当社のビジネスを未来につなげていきたいと思っています。

それに加えて、先ほどお話したTAKIBI & Co.のように、これからは自社の横に刺激的なスタートアップとのコミュニティができるので、社員にとってもポジティブな影響があると考えています。

まわりまわって思ってもみなかった良いことが起きたりするので、「利他って本当に良いよ」と多くの人に伝えたいですね(笑)。経営学者のサラス・サラスバシー氏が提唱しているエフェクチュエ―ションという意思決定理論があります。

これは、今あるものをクレイジーキルトのようにつなぎ合わせていき、競合すらも協業する相手として捉えて他社の余剰資産も活用しながら、結果的に全体にとって良いエフェクト(結果)を得るという理論なのですが、これが今私が考えていること、やっていることに近いなと感じています。

丸山
最後に、読者の方へぜひメッセージをいただけますか?
岩田

私は本気で「ピンチはチャンスだ」と思っていて、何かピンチが発生したら「来たぞ来たぞ!これは試されてる、これをどう打ち返すんだ!」と自分を鼓舞して、ニコッと笑うようにしています。

これは過去に「厳しい場面でも下を向かずにトライし続けたことで良い結果に繋がった」という経験を何度も積み重ねてきたからこそ実感している信条です。先ほどお話した指定校推薦を落ちた経験にしても、そのおかげで未だにどの先生も私のことを覚えてくれていますし、BCGでの新人時代の苦労も、ビジネスマンとしての足腰を鍛えてくれたと思っています。

また、僕はアトツギとは究極的には「会社の物語を継ぐ存在」だと考えています。資産や事業、社員や社名などを継ぐとも言えますが、うまく事業承継している企業は事業を変える例も多く、それに伴い社員や社名が変わることも少ないようです。だとすると、一体何が継がれているのかと考えた時に、物語しかないと思っています。

個人としても、会社としても、すべてがうまくいって1つも起伏が無い物語など面白くないですよね。それに、ピンチでも前向きに立ち向かう主人公の方が格好いいと思うので、ピンチの場面では「物語のクライマックスが来たぞ!」という気概でニコッと笑うことを今は大事にしています。

構成: 神田昭子
撮影: 波多野匠

※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。

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