ハイクラス転職のクライス&カンパニー

「ヘラルボニー」が日本の共通言語になる、その日まで。 本気で障害福祉の価値観を変えていく。

公開日:2023.04.12

「異彩を、放て。」をミッションに掲げる福祉実験ユニット、ヘラルボニー。国内外の福祉施設に在籍するアーティストと共に新たな文化の創造を目指す、岩手県発のスタートアップとして注目を集めている。双子の弟と共に同社を設立、自社事業の営業を統括する代表取締役副社長COOの松田文登氏にお話を伺った。
松田文登氏のプロフィール写真

松田 文登 氏プロフィール

株式会社ヘラルボニー / 代表取締役副社長COO

ゼネコン会社で被災地の再建に従事、その後、双子の松田崇弥と共にへラルボニーを設立。4歳上の兄・翔太が小学校時代に記していた謎の言葉「ヘラルボニー」を社名に、福祉領域のアップデートに挑む。ヘラルボニーの営業を統括。岩手在住。双子の兄。世界を変える30歳未満の30人「Forbes 30 UNDER 30 JAPAN」受賞。2022年、「インパクトスタートアップ協会」(Impact Startup Association)の理事を務める。著書『異彩を、放て。「ヘラルボニー」が福祉×アートで世界を変える』。

Message

志あるハイクラス転職を、クライスと クライス&カンパニー

Interview

アートを通じて障害のある方との出会いを創出。「格好いい」ブランドの醸成を目指して。

丸山
まず初めに、貴社の事業内容についてお話いただけますか?
松田

私たちは、日本全国に多数存在しているアートに特化した福祉施設の皆さんからアートのデータの著作権をお借りして、そのデータを軸に様々なモノ・コト・場所に落とし込んでいく事業を行っています。

ヘラルボニーは、市場の拡張ではなくて思想そのものを拡張していきます。障害のある方たちの目線が変わっていく先に、アートに限らず様々な障害がある方たちの生き方があるという哲学を大切にしながら、事業として運営している会社です。

当社には大きく分けてtoBとtoCの2つの事業がありますが、toCはデータを軸にアート作品をファッションデザイナーと組んで「HERALBONY」というアートライフスタイルブランドにしていき、toBではアートデータのライセンスを軸に街づくりや企業のプロデュース業など様々な社会実装をしていくという形をつくっています。

また、アートの価値を高めていくことも非常に重要であり、金沢21世紀美術館のチーフキュレーターを務める黒澤浩美氏に企画アドバイザーとして参画いただいています。障害者アートというCSR・SDGsの観点ではなく、「本当に作品・作家として素晴らしいという価値基準をどのように創っていけるか」という点がアート事業においては重要かと思います。

丸山
貴社のHPにはビジネス色を感じました。今はどの事業が一番伸びているのですか?
松田

一番の収益のポイントはやはりtoBのライセンスビジネスです。ただ、そこだけをやり続けてしまうとブランドとして消費されていってしまうので、今はコラボを絞りながら、本当に自分たちが共鳴できる企業と共に今後5~10年かけてどういう世界を創っていくかという視点で、短期的ではない組み方をしていこうと挑戦しているところです。

丸山
実現したい世界観が重要ということですね。創業のエピソードもお聞かせください。
松田

私の双子の弟の崇弥が、るんびにい美術館で障害のある方の作品を観て凄く感動して、僕に電話をくれまして。僕も観に行って、凄いなと思ったのが最初のきっかけでした。

そこで「障害者アート」で検索してみたらあまりにも支援的な文脈に乗り過ぎている現状を知り、「これはアートとして見られていないんだな」ともったいなさを強烈に感じたんですね。福祉施設でも、作品自体はとても格好いいのに展示する場所が格好いいかというとそうではない。作品の額装ひとつ取っても、それがどう見られるのかという基準を大切にしていかないといけないなと。

僕ら双子の4才上の兄が重度の知的障害と自閉症を持っているのですが、周囲から「かわいそう」と言われていたなと思い出していく中で、アートというフィルタを通じて障害のある方との出会いを創っていくことが、美しい形での啓発機能を持つようになるのではないかと思ったんです。

私も兄の存在を隠していた時期もありましたが、堂々と兄について話せる社会をどう創っていけるのかなと考えた時に、地元の友人たちが「格好いい」と言うものって何だろう、と。私は岩手の小さな田舎町の出身ですが、地元にもトヨタの工場があり「レクサスに乗りたい」とか、「ラルフローレンを着たい」といった趣味嗜好がある。福祉や障害やアートに全く興味が無い友人たちにもブランドという傘に包含することで伝わる価値観があるのではないかと考えて、スタートしました。

最初の1年半ほどの間は副業に近い形で続けていたのですが、まだ全然利益も出ていない時に突然崇弥が「会社を辞める」と言い出して。当初はスタートアップでやろうという考えは全く無くて、このワクワクをどう届けていけるんだろうというのが基準になっていたところから、段々とこれを本気で挑戦していきたいという思いに変わっていきました。

丸山
崇弥さんは、何で「会社を辞めてこれに専念する」と言ったのでしょうか?
松田

崇弥が当時勤めていた会社で全社員が皆の前で今年の目標を発表する場があり、自分の番が回ってくるタイミングで「やっぱり俺は本気でこっちをやりたいな」と思ったらしく、いきなり僕に電話してきて「もう今日会社を辞めると言ったので、お前も辞めろ」と(笑)。僕も驚いてしまって、何の段取りも無く啖呵を切られても「いや、辞められないだろう」と思ったのですが、その後色々順序立てて自分も辞める決断をしたという流れでしたね。

ヘラルボニーが目指す世界観とは。障害のある方たちの生き方そのものを変えていく。

ヘラルボニーが目指す世界観とは。障害のある方たちの生き方そのものを変えていく。

丸山
創業から現在に至るまでの紆余曲折についてお聞かせいただけますか?
松田

創業当初は非常に苦労しましたね。ヘラルボニーの考え方に共鳴いただける様々な福祉施設から本当に素晴らしい作品データを多数集められたのですが、企業からは「良いことをしているね」と共感は得られるものの、「何で価値の無いものにお金を払わないといけないんだ」という反応で。どうしてもCSRという価値基準が抜け切れず、非営利が前提にある世界に株式という形を持ってきたのが日本初であり、海外でも実例が無いと言われる中で、ビジネスとしてはかなり難しいものがありました。

そこで初めて、ブランドに思い切って資金を注ぎ込みました。私たちの提案が企業に刺さらないのは、ライセンスとして使ってもらうことを目指す上で、どういう世界観を創りたいのかが企業に全く伝わっていなかったからだと気が付いたんです。ヘラルボニーが目指したいものをビジュアルとして伝えていくことが非常に重要でした。

最近、阪急うめだ本店でヘラルボニーアートコレクションを開催したのですが、これは1Fでロクシタン、2Fはトゥモローランド、3Fはファミリアという形でフロアごとに各アパレルブランドとコラボレーションして、9Fではヘラルボニーの原画を展示するというイベントでした。そこで世界観を創り込み、大企業の皆さんをアテンドして名刺交換をする等、クライアントを獲得する場として捉えており、単にアパレルを売る場ではないというのが新しい試みかなと思います。

丸山
今振り返ってみて、これで会社が変わったという節目となることはありましたか?
松田

創業2年目の時に某大企業からM&Aのお話をいただいたことがきっかけで、その後初めて投資に踏み切ったんですね。この時初めて、「ヘラルボニーが何を目指すのか」について双子で真剣に話し合いました。そこでやはり自分達でやりたいのだと認識でき、障害のある人達の生き方そのものを変えていく会社になりたいと強く自覚できたと思います。

これまで社会では障害のある方達をコストと見ていた面もあった中で、「ヘラルボニーの作家は納税者であり、障害のある方達がいなければ私たちのビジネスが成り立たない」という逆転構造を社会に提示することは、捉え方や価値観によって彼らの生き方そのものが変わっていくことの意思表明でもある。ヘラルボニーが事業として成立するのだと、株式という形を取ることで本気でやり切りたいと思ったんです。

丸山
それは作家さんご本人にとっても、そのご家族にとっても夢がありますね。
松田

ご家族にとっては、親亡き後の問題が非常にシビアであり、親御さんの自己肯定感も難しいところがあります。私の母も、兄が3才で重度の知的障害と自閉症という診断を受けた時が人生で一番絶望した瞬間だったそうです。ただ、どの親御さんもその子が生まれたからには幸せになってもらいたいと強く思っておられて、我々に熱いお手紙をいただくことも多くあります。

「初めて息子が誇らしく思えました」と言ってくださる親御さんもいて。「これまで社会に迷惑をかける存在だと思ってしまっていたこともあったが、息子の作品が銀座三越で大々的に展示販売されていて、この作品を素敵だと言ってくれる人がいることが信じられない気持ちです」と。親御さんの息子さんに対する接し方も変わりますし、親戚や地域の人達の生き方にも変化が出てくるというのは非常に重要なことだと思いますね。

丸山
この先、ヘラルボニーをどのような会社にしていきたいとお考えですか?
松田

「障害福祉のインフラになっていきたい」と強く思っています。「ヘラルボニーに預けるなら安心だよね」と言える場所を整えていきたい。障害のある方達の生き方が変わっていくところまで着目してやっていける会社でありたい。その第一フェーズとして、アートという美しい啓発機能を持った価値観が社会に拡がっていくことによって、「障害のある方たちにこういう個性や得意な部分があるんだ」と知っていただける形を目指します。

次の第二フェーズとしては障害のある方達の様々な異才に着目していき、異才が放たれていく状態が可視化されていくことを見据えており、最終的には「障害のある方達のありのままが肯定されている」状態を目指します。その実現のために、事業展開を進めていこうと考えています。

置かれた環境下で、仕事をどれだけ本気でやり抜けるか。根底にあるのは「負けず嫌い」。

置かれた環境下で、仕事をどれだけ本気でやり抜けるか。根底にあるのは「負けず嫌い」。

丸山
文登さんのこれまでの人生の中で、大きな転機となった出来事はありますか?
松田

中学校2~3年生の頃に、周囲にバカにされたくないという感情を強く抱いた時期があって、自分もその人達と仲良くなればいいと不良グループに属していたことがあったんですね。髪を染めてピアスも開けて、学校も行ったり行かなかったりという状況で、素行が悪すぎて地元の高校には進学できなかったのですが、卓球だけはなぜか頑張れていたおかげで遠方の高校に入って下宿生活を送ることができました。そこで地元の仲間たちと離れて完全に人生を切り替えられたのは、大きな転機だったと思いますね。

丸山
それは確かにターニングポイントでしたね。社会人になってからはいかがですか?
松田

私は前職のゼネコン時代に2年半ほど東日本大震災の被災地である大船渡や陸前高田で住宅営業として働いていたのですが、自宅を津波で流されて家を建てるという被災地の方々と対話を重ねていった経験が強く印象に残っています。

それまでの私は住宅営業として比較的良い業績をあげていましたが、被災地では売り方がまったく違っていて、本当の意味でその人と共鳴できるか、「お前に頼むわ」と私を信頼して任せていただけるかどうかが重要でした。ご両親を震災で亡くしている方々も多く、一人ひとりとどう心を通わせることができるかという視点で日々仕事に向き合っていました。

当時は一緒に仮設住宅に泊まったり、家族ぐるみで仲良くなったりと、「お客さん」と「営業」の枠を超越した関係性が築けたと思います。この体験は、自分の人生にとって非常に大きかったなと思いますね。

丸山
生き方が変わったということですね。最後に、読者の方へメッセージをお願いします。
松田

私が前職でゼネコンに入社した当初、建築の営業を希望していたものの住宅部門の営業に配属されてしまって。そこからは、与えられた環境下でどれだけ結果を出していくかを意識してやってきました。

「自分のキャリアがどうなるか」ということも重要ですが、与えられた環境が当初の希望と違ったとしても、その場所でどれだけ自分のバリューを発揮できるのかが勝負であり、もしかしたら自分が想像もしていないような力が発揮できるかもしれない。

「目の前の仕事をどれだけ本気でやり抜けるか」が最終的なキャリアに繋がっていくと心から信じています。普段あまり表には出しませんが、私は絶対に諦めないところがあり、負けず嫌いな人間なので。ずっと双子で較べられて生きてきた影響もあるかもしれません。

実は「社会起業家」「ソーシャルベンチャー」等でカテゴライズされるのも好きではなくて、儲からない会社という価値観になりそうで怖いんです。確かに社会にとって良いことをやっているものの、決して儲からなくて良いわけではなく、むしろビジネスが価値観として最前線にいないといけないと強く思っています。

私たちは本気で障害福祉の価値観を変えていく会社になりたいという思いがあるので、ヘラルボニーという言葉が日本の共通言語になっていく未来まで走り抜きたいと思っています。

現在、全方位で採用を行っており、ヘラルボニーが障害福祉の領域で世界に轟く企業になっていくためには優秀なグローバル人材が必要だと考えています。来年から再来年にかけて海外展開にも本気で挑戦していく予定ですので、ぜひ私たちの仲間になっていただける志のある方のご応募をお待ちしています。

構成: 神田昭子

※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。

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