大正時代より始めた味噌醤油醸造を背景に、1997年よりクラフトビールに挑戦した伊勢角屋麦酒代表の鈴木成宗氏。『伊勢から世界へ』『世界のビールファンを唸らせる』をビジョンに掲げ、AIBA金賞やベストオブクラスウイナー賞、その他数々の国際大会で受賞を重ねている。鈴木氏の溢れ出るエネルギーの源泉を探るべく、これまでの歩みやターニングポイントについてお話をうかがった。

鈴木成宗氏プロフィール

伊勢角屋麦酒(有限会社二軒茶屋餅角屋本店) / 代表取締役社長

1967年伊勢市生まれ。東北大学農学部を卒業後、1575年創業の老舗(しにせ)餅店「二軒茶屋餅角屋本店」を継ぐ。伊勢神宮別宮の「倭姫宮(やまとひめぐう)」近くの森の中の椎の木の樹液から採取した野生の酵母を三重大学で約半年間、DNA解析などして単離に成功。酵母「KADOYA 1」で造った「ヒメホワイト」が国際ビアカップなどで高く評価される。

Message

Interview

常に何かに夢中になっていた少年時代。とにかくやると決めたらやり切る集中力。

丸山
鈴木さんの著書「発酵野郎!」(新潮社刊)を読みましたが、ターニングポイントだらけの人生ですね(笑)。小さい頃はどんな子供でしたか?
鈴木
大人からは落ち着きがないと言われていました。成績は良くてトップだったのですが、忘れ物でも学年トップ(笑)。ただ、集中力はとにかくあったので、思いつくまま石にハマっていた時期もあれば、虫や蛇や亀を飼ったこともあり、微生物も大好きでした。親にねだって買ってもらった顕微鏡を初めて覗いた時、プレパラートにセットされていた花粉と胞子の色彩が繊細で驚いたことを覚えています。自然界をそうやって見ると、皆生きて動いている。それを知ってからは、飽きもせずによく眺めていましたね。
丸山
それが鈴木さんのルーツのひとつなのですね。成長されてからはいかがでしたか?
鈴木
高校でも全然勉強せずに浪人して東北大学に進学し、これではろくな人間にならないと自分を鍛え直すため一番厳しい空手部に入りました。毎日血尿が出るようなきつい稽古でしたが、主将になり全国大会にも出られて自信がついたのは大きかったですね。自分が空手でそこまで才能が無いのは分かっていましたが、早朝にひとりで稽古するなど部員の誰よりも稽古したので、これだけやればそこそこやれるもんだなと。当時は大会でどうしても勝ちたかったし、強くなりたかった。ひょっとしたら自分が1位になれるかもしれない段階まで来ていたので、だったらそこまでやろうと思ったんです。4月の入部当初は準備運動にもついていけないレベルだったのが、夏合宿が終わり実家に帰った時、母が自分だと気づかなかったくらい身体と顔つきが引き締まったんですね。とにかく1回やると決めたら一定期間は集中してやるところがあります。ただ、その後すぐ飽きるんですが。
丸山
その集中力がすごいですよね。大学時代、勉強の方はどうでしたか?
鈴木
勉強はあまりやっていなかったですね(笑)。最後の1年間は研究室に入ってみっちり微生物の研究をしていて、その後実家に帰りましたが、毎日同じことの繰り返しでつまらなかった。当時は一番若い人でも自分と20才以上年の差があったので、20年経っても同じことをやるのかと思ったら段々耐えられなくなり、何かやりたいなと。その頃地方博で自ら店舗を切り盛りしたのは面白かったですし、初めて自分自身で初めから終わりまでひとつのことをやりきった経験でした。餅屋と甘味に加えて磯辺焼きを出したら行列ができたんですね。当たると事業の面白さが分かるものです。

クラフトビールで世界一を目指して。自分には、フルアクセルかフルブレーキしか無い。

丸山
クラフトビールを始められたのはどういう経緯だったのですか?
鈴木
細川内閣の時に地ビールが規制緩和となり、ビールをやればまた微生物と遊べますし、伊勢界隈だけでなく海外とも色々関わりができるのでこれはぜひやらないと、と思いまして。ただ、当時は年商1億なのに2億7千万も使ってしまい、追加融資を受ける際に銀行から「うまくいかなかったらどうしますか?」と聞かれ、「いや、うまくいくまでやります」と答えたら「分かりました」と(笑)。金融機関の方々には本当に手厚くご支援いただきましたが、事業が軌道に乗るまでには非常に時間がかかりました。ガソリンを満タンにするお金も無く、東京へ行くにも夜行バスで往復するような生活でクラフトビールを始めた97年から数年間は相当厳しかった。それでも、国際大会で優勝したら物事は好転するだろう、どうせ目指すなら世界一の本当に権威ある賞を獲ってやろうと思っていました。僕は0か100というタイプの人間なのでフルアクセルかフルブレーキしか無くて、やるなら一直線にやりたい。ビールもやるなら良いものを当然つくりたいし、良いものは「世界一」なら分かりやすいし間違いない、と。
丸山
それで国際大会の審査員になるのもすごいですよね。僕なら、一番美味しいクラフトビールの工場に聞きに行くとか、目先のことをやるぐらいかと思います。
鈴木
審査員になるのが一番勉強になるし、ビールの品質改善に活きるやろう、と。工場見学に行ってもその工場のビールしか分かりませんが、審査員になれば数千種類のビールのことが分かるので得られる生の情報量が圧倒的に違いますし、ビールを評価する力が格段に変わります。よく老舗メーカーさんが「長年大会に出しても全然賞に手が届かない」と相談に来られますが、試飲するとビールが劣化しているのに気づいておられない。まずは地方大会で良いので、社員を審査員として送り出すのが一番ですよとお伝えしました。
丸山
なるほど。ただ、その後世界一のタイトルを獲っても業績としては全く伸びなかったそうですね。
鈴木
今振り返ると、完全にプロダクトアウトでお客様目線が無かったんです。広く知られていない大会で優勝しても、世間の反応は「へえ」で終わり。僕がやってきたのは何だったのかと思っている時に、九州でティアという自然食レストランを創業された元岡健二さんに出会い、世界一になったけどボロボロですと話したら13時間ぶっ続けで怒られました。人間は5時間以上怒られると、最早何を言われているのか分からなくなる(笑)。「お前は何一つ分かってない。机の上は綺麗でも引き出しの中はごちゃごちゃで、頭が整理されていない」と。元岡さんに勧められた西順一郎先生のMG(マネジメントゲーム)講習を東京で受講し、これが自身に必要なことだったと気づいて半年後にはインストラクターの資格を取って社内に広めたんです。また、PLをダイレクトコストに置き換えると視覚的に経営状況が見えるようになりました。当社の場合は、伊勢志摩に来る観光客と本当にビールが好きなお客様の2つのマーケットがある。それぞれダイレクトに訴求できるビールを定義して商品をつくり直し、事業計画を置き換えたところから一気に急カーブで業績が折り返した。当たり前のことを初めてやったということです。「ビンは重いし、音もガチャガチャする」という声を聞き、観光客は品質にこだわるよりも伊勢土産としてビールを買いたいのだと気づきました。それなら、常温状態で缶の形態にして製造を外部委託しようと考えたんです。
丸山
そこでようやくマーケットとつながった感覚だったのでしょうか。
鈴木
はい、でも気づくとすぐものづくりバカになってしまいます(笑)。あれ、おかしいとなったらマーケットに引き戻される、その繰り返しです。最近は私だけでなく会社全体で考えないといけない時期に来ていて、消費者の生活が10年でどう変わるのかを新入社員から専務まで頻繁に集まって話し合うようにしています。ようやくそういう話をするところまで来たという感じですね。

これまでの数倍の密度で人生が送れる時代。新しい世界で力が足りないなら、歯を食いしばってやればいい。

丸山
マーケットを知るための具体的なアクションは、どんなことをされていますか?
鈴木
イベントではなるべく売場に立つようにしていて、とにかくお客様をよく見ることでしょうか。この人は何を考えているのかな、と。ビアフェスのお客様からランダムに10人くらい選んで伊勢角を語る会も今度やってみようかな。何でわざわざ当社のビールを買いに来てくれているのか、そこには何かあるはずだと思っていて。もう少しお客様と話をしたいですね。
丸山
いいですね。先日、静岡にある様々なクラフトビールが飲めるバーで伊勢角さんの「ねこにひき」の話をしたら、「あれ、なかなか飲めないんですよ。飲ませてください!」と言われて嬉しかった。程よい飢餓感がより飲みたい気持ちを掻き立てるのだと思いますが、あまり行き過ぎるとお客様が離れてしまいますよね。
鈴木
従来の工場から新しい工場に移ったのも、まさにそれがあります。生産量があまりに少なかったので、数年悩んだ末6億ほど投資して新工場設立に踏み切ったのですが、新卒社員が20年30年と成長していけるステージという観点でも良かったと思います。1000リットルの2釜だと1日2回転でしたが、今では4000リットルの4釜で1日4回転できるので生産能力は8倍になりました。まだフル稼働ではなく、徐々に生産量を増やしている段階です。今後は缶のラインもつくるので、3~4年で主力プラントがMAXの回転率に行ければ良いなと。発酵管理から出荷まで全工程を向上させていく必要があるので、まだまだ道半ばでこれからが楽しみです。一方で、人件費はフルオートメーションでかなり削減できており、社員には極力人間にしかできないクリエイティブな仕事をしてもらいたいと思っています。
丸山
なるほど。新工場への移行はスムーズだったんですか?
鈴木
いえ、初めは思うような品質のビールができず、「世界一のビールをつくるために俺たちがやってきた中で、このビールはお客様に出せない」と8000リットル分を捨てたこともありました。一円でもお金が欲しい時期でしたが、その一件で若手社員は「社長がダメと言ったら絶対売れへんのや」というポリシーを理解してくれたと思います。とは言え、新工場で1年やってビールができないと潰れるなと思い、寝られない日々が続きました。2018年7月に稼働開始して8月に初出荷したときはダメダメでしたが、11月から目に見えて良くなり、2019年1月から従来の品質にようやく並び、そこで出品してギリギリ金賞を受賞できました。2017年は旧工場で、2019年は新工場でそれぞれ受賞したのですが、実は2019年の時も審査員を務めていたので気が気ではなく、会社から連絡があり「ペールエールで金賞を獲りました」と聞いた時は嬉しくて涙が出ましたね。
丸山
それは緊張感があったでしょうね。現在、貴社の組織規模としては何名ですか?著書の中で上場に関するお話もありましたが、お考えとしてはいかがでしょうか。
鈴木
正社員は約20名で、短期の方を含めると最大で100名くらいです。そろそろお餅をどうするか本格的に方向性を決めていく段階で、本店でしか売らないという原点に立ち返ったほうが良いのではとも思っています。上場を考えると餅屋とビール事業を分けないといけないので、いつそれをやろうかと。また、最近私の曾祖父が元々やっていた酒問屋を会社ごと自分が引き受けることになったので、この会社を活用してメーカーだけではできないことをやろうと。現在、宮古島でサトウキビを使って巨大プラントの中でジンをつくるという話が来ており、検討しているところです。
丸山
なぜジンなんですか?
鈴木
海外でクラフトジン市場が急拡大していますし、つくるのに時間がかからない。また、スギやサトウキビなど産地の副原料が使えることも大きいですね。これから新しいことにトライできる市場だと感じていて、宮古島でやれば現地の雇用も生まれる。私は、日本のアルコール文化をもっと厚みのあるものにしたいんです。海外では、ビールはワインよりもはるかにクリエイティブな飲み物として若い世代が注目し始めています。アメリカでは約110万人が自宅でビールをつくっていて、市販ビールの善し悪しも分かりリテラシーが高い。一方、日本でダイアセチルがどうのと言っても「うーん」となるでしょう(笑)。この度、2019年10月1日にホームブルワリー協会を立ち上げました。京都の与謝野町から手が挙がったので、今後ここを皮切りに国内で広げていきたいと思っています。いずれ日本全国でホームブルワリーが浸透するかもしれません。
丸山
それは楽しみです。ここまでお話をうかがっていると、やはり元岡さんに13時間ぶっ続けで怒られたのが鈴木さんにとって最大のターニングポイントだったように感じます。
鈴木
はい。改めて振り返ると、確かにそうかもしれませんね。元岡さんには今でも時々九州でお会いする機会があり、当社のビールをとても喜んでくださっています。また、私が創業した頃に中川電化産業の会長を務められた河中宏さんのお話を聞く勉強会があり、「鈴木さんはいつか必ず成功する人や。それまで、過信でも思い込みでもいいから成功するまで自信を持ちなさい」と言われたんです。根拠は全く無いのですが、この言葉は支えになりました。その後、私が35才の時に河中さんからロールスロイスをいただいて、当時の自分には分不相応ながら、「2歩先の人間が何を考えているのか知るために乗りなさい」と。政治家の藤波孝生さんも、とても人間性豊かで情に厚い方でした。これまで恩人のような方々に支えていただいたと思います。
丸山
本当に人に恵まれてきたのですね。最後に、読者の方へメッセージをお願いします。
鈴木
今は変化が激しいからこそ組織内ではなく生身の自分が評価されやすい時代なので、チャンスとも言えます。新しい世界で力をつければいいし、力が足りないならできるようになるまでやればいい。固定された組織だと序列が決まっていて、安心感はあってもワクワク感はあまり無いですが、今後はその安定が確実に崩れてくるのである意味面白いですよね。これまで数十年間で経験できたことの数倍の密度で人生が送れる時代になっている。「英語ができないなら、ビールをやっていくのはアウトやで」と若手社員に言っていますが、1日3時間くらい歯を食いしばってやれば1年くらいで大概のことはできるようになる。学生時代、先輩からも「お前は乱世に強い」と言われていました(笑)。日本で生活していればどう間違っても死ぬことはないだろうし、まあ何とかなるやろうと思っているところがあるんです。

構成:神田昭子
撮影:櫻井健司

other interview post