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ハイクラス転職のクライス&カンパニー

一度はゲームセットした夢へ。日本人アンパイア、ベースボールの母国で裁く。

Special Interview
「日本の30代、40代を熱くしたい」日頃この世代の方々とお会いしていてずっとこんな思いがありました。
そんな中この思いに賛同していただいたお二人(メジャーリーグでエージェントをされている三原徹氏と、
ノンフィクション作家の平山譲氏)のご協力を得て、ようやく実現した企画が「転機をチャンスに変えた瞬間」です。
第一線でご活躍されている方にも転機は必ずあったはずです。
その転機でチャンスをつかんだ、ピンチをチャンスに変えたからこそ今の活躍があるのだと思います。
その瞬間にはたらいたエネルギーの根っこにあるもの、ものすごいプレッシャーの中精神を支えたものとは。
ご登場いただく方々のメッセージを読んで、みなさんが熱く、熱くなっていただくことを強く祈念しております。

クライス&カンパニー 代表取締役社長 丸山貴宏


野球審判員 平林岳氏

1966年兵庫県生まれ、野球審判員。中学生時代からプロの審判を目指し、國學院大学卒業後、日本のプロ野球、セ・パ両リーグの審判テストを受けるも、身体検査で裸眼視力が規定に満たずに不採用になる。
1992年、渡米してジム・エバンス審判学校に入学し、日本人初のアメリカプロ野球審判となる。
1993年、パ・リーグからスカウトされ、東京審判部に入局。1999年4月7日には、松坂大輔投手(現ボストン・レッドソックス)のプロデビュー戦の球審を務めるなどした。
2002年を最後に退局し、渡米してジム・エバンス審判学校に再入学。2005年、マイナーリーグで米国球界復帰を果たす。
2007年、ミッドウェストリーグ(ミドルAクラス)のオールスターゲームでも球審を務める。同年7月、アドバンスドAクラスへの昇格を果たし、カリフォルニアリーグの審判となる。
2008年、サザンリーグ(ダブルAクラス)に所属し、シーズン終盤にはチーフクルーとして数試合を担当。
2009年は、日本人初となるトリプルAクラスへの昇格が見込まれている。その場合、日本人審判として初めて、臨時的にメジャーリーグのグラウンドに立つ可能性がある。
現在はアメリカでメジャーリーグの審判を目指す傍ら、日本のFMラジオ局・NACK5でゲスト解説なども行っている。

インタビュアー

クライス&カンパニー 代表取締役社長
丸山 貴宏
キャリアコンサルタント
松尾 匡起

Message

Interview

日本で閉ざされた扉を、アメリカで開く。

――
中学生時代から、「選手」ではなく「審判」に憧れ、以来まっしぐらに夢へ向かって前進してきた平林さん。そして大学卒業後、満を持して日本プロ野球、セ・パ両リーグの審判員試験を受験。しかし、知識や技術ではなく、身体的資質である視力不足により不採用となってしまう。けれども、平林さんは諦めなかった。当時はまだ先進的だった視力回復手術を受けてアメリカへ飛び、ベースボールの母国で審判になることを目指した。若きアメリカ人に交ざり、審判学校で学ぶ日々。言語の壁をも越え、彼は、日本人初のアメリカプロ野球審判員となった。メジャーリーグという最高峰に挑むアンパイアの、転機をチャンスに変えた瞬間とは──。
丸山
まず、なぜ「選手」ではなく、裏方ともいえる「審判」になろうと決意されたのか、そのきっかけから教えていただけますか。
平林

もちろん子供の頃は、プロ野球の「選手」になることを夢見ていました。でも中学校で野球をしているときに、プロになるには努力のみならず、人並み外れた才能がなければ無理だと感じてしまったんです。残念ながら、僕にはそれがなかった。レギュラー選手でしたが、たまに試合から外されることもある程度の選手でしたから。つまり、選手としての自分を、早々に見切ってしまったというわけです。そんな折に、テレビでプロ野球の中継を見ていて、プロのグラウンドに立てるのは選手だけじゃない、「審判」という道があるじゃないかと気付いたんです。それからは、野球をやりながらも、審判としてトップになるという目標を自分の中でイメージしはじめました。プロの審判になるなら高校までは野球をしていなければならないだろうからと、甲子園ではなく、審判だけを目指して部活動をしていました。だから練習試合では、誰もやりたがらない審判を、率先してやっていましたよ(笑)。

写真
丸山
そこまで鮮明に将来像を描いていたにもかかわらず、日本のプロ野球、セ・パ両リーグの審判員試験では、視力不足で不採用に……。ショックであると同時に、就職しなければならないという現実に直面して悩まれたのでは?
平林

不採用と決まった数日後には、角膜に切れ目を入れて視力を上げる手術を受けていました。悔しいというより、まだ諦めることなんかできない、そう思ったんです。でも、不採用となったわけですから、ぶらぶらしているわけにもいかず、ファミリーレストランの店長候補として就職しました。もちろん、夢を諦めたわけではなく、仕事が夜間勤務だったので、日中は草野球の審判をやって腕を磨いていました。しかし不眠の仕事は体にきつく、1年で退職して一般企業に再就職しました。そして1992年、アメリカには審判学校があって、そこで試験に合格すればメジャーリーグの審判も目指せることを知り、おもいきって渡米したんです。じつはそのとき、自分にケジメをつけるためにアメリカまで行ったようなものだったんです。審判学校で自分の実力を第三者に判断してもらって、もし駄目なら断念しようと。そうしたら、意外にも受かってしまって(笑)」

丸山
初めてのアメリカでの生活は、慣れないことも多かったと想像できます。しかもマイナーリーグは選手ですら俸給が十分でないと聞きますから、いくらやりたい職業だったとはいえ、苦労も相当だったのでは?
平林

渡米する際、収入はゼロ、成功する保証もゼロでした。それでも僕は、自分が好きなことに、とことん挑戦してみたかったんです。もしアメリカで失敗しても、何とかして1000万円ぐらいなら日本で稼ぐ自信がありました。その1000万円と引き替えにしてもいい価値が、僕の夢にはあると思っていました。渡米直後は満足に英語も話せなかったんですけど、生活しているうちにいろんなことに慣れていくだろうと楽観していました。でも、すぐに英語が上達するはずもなく、審判を始めて1年くらいはコミュニケーションができずに、しんどい思いをしました。報酬は月給22万円ほどで、楽に暮らせないのはもちろん、給料がもらえるのはシーズン中だけなので、オフには別の仕事をするために日本に戻らなくてはなりませんでした。それでも、自分で選んだ職業ですから、苦労を苦労とも感じずに挑戦できたんでしょうね。ときどき、僕はしあわせ者だと、つくづく思うときがあるんです。なぜなら、ほんとうにやりたい、心から好きだといえる職業に出会うことができたんですから。

スカウトされて「逆輸入」で日本へ。

――
1992年、アメリカの審判学校を卒業し、晴れて審判になることができた平林さん。マイナーリーグからのキャリアアップを始めて1年後、おもわぬオファーが日本からもたらされた。それは、一度は視力検査で不採用となったパ・リーグからのスカウトであった。帰国後約9年間、日本のプロ野球を舞台に活躍。松坂大輔選手のプロデビュー戦や日米野球などの球審を務めるなど、充実した日々を送ってきた。しかし、心の中には、帰国して以来、ずっと燻りつづけていた夢があった。「最高峰メジャーリーグで審判を務めたい」。そして、家族の一言に後押しされ、再渡米を決意する──。
丸山
日本の球界で審判をするということは、そのとき芽生えていたメジャーリーグ昇格という夢を諦めてしまうという選択だったのでしょうか?
平林

コミュニケーションがうまくできず、周囲には日本人が一人もおらず、フラストレーションが溜まっていきました。寂しかったというのが、帰国のいちばん大きな理由だったのかもしれません。もともとは日本のプロ野球の審判をやりたいと思っていたわけですし、一度は経験してみてもいいかなと。でも、夢を諦めるつもりはありませんでした。いつでもアメリカに戻れるという思いで帰国したんです。いま思えば、日本にいた9年間も、僕の財産になっているなと実感しています。日本の野球のレベルが高いということが肌で感じられたし、審判としても、成長できた部分がたくさんありました。また94年には日本で結婚し、その後娘も生まれました。日本での審判生活も、そこで満足してしまえば、十分充実した日々が送れたかもしれません。家族の暮らしのことを考えたら、日本にいたほうがずっと安定していましたから。

丸山
アメリカと日本、どちらのプロ野球でも審判を経験されたわけですが、その差異をどう感じましたか?
平林

野球の規則は、アメリカも日本も大差ないんです。では、なにがいちばん違うかといえば、組織の構造そのものです。アメリカは、コミッショナーに絶大なる権限がありますが、日本は、チームのオーナーさんの集まりがコミッショナーよりも上に位置します。審判は、コミッショナーの代行としてグラウンドに立っているので、当然ながらアメリカでは、絶対的な権限があります。判定に抗議する選手や監督は少ないですし、審判をリスペクトするという精神が、それこそリトルリーグから徹底されています。対して日本では、審判が監督よりも下の存在です。ストライク・ボールの判定でも抗議はあたりまえだし、口だけではなく、手まで出してくる人までいる。アメリカで手を出して抗議する監督がいれば、球界を追われるほどの制裁があります。日本では制裁も厳しくないので、アメリカでは絶対に抗議などしない外国人選手さえもが、日本に来ると平然と抗議してしまう。僕は日本での審判時代、その矛盾をずっと感じていました。

丸山
日本では、結婚やお子さんの誕生など、守るべきご家族ができました。その奥様の一言が、再びメジャーリーグを目指すきっかけになったということですが。
平林

自分では、ずっと、アメリカへ戻って挑戦しなおしたいと思っていました。でも、それを自分から嫁さんに話すことはできずにいました。娘も生まれ、守るべき家族ができたわけですから、夢を語ってしまえばわがままになると思っていたんです。そんなとき、嫁さんが病気で入院したんですね。その嫁さんが、こういってくれたんです。「もしアメリカでやりたいという思いがあるのなら、やれるときにやったほうがいい」。僕は、自分の夢を口には出しませんでしたが、それでも嫁さんは、わかってくれていたんでしょうね。たとえばメジャーリーグの中継を一緒に見ているとき、あ、あいつは俺と同期だった審判だよとか、いっていましたから。嫁さんの言葉を聞いたとき、もし、明日自分が死んでしまったとしても、後悔しない人生を歩みたいと思えました。それなら、アメリカへ行こうと。まだ遅くはない、もう一度アメリカで挑戦しようと。

忘られぬ夢を追って、ゼロからの再出発。

――
日本のパ・リーグ審判部を退職した平林さんは、渡米して審判学校から再出発を始めた。学校はアメリカ人の生徒ばかりで、しかもほとんどが20代前半の若者。日本からやってきた、すでに30代後半の「オジサン」は、周囲の眼にはどう映っただろうか。平林さんは、夢に向かって突き進んだ。2005年、審判学校卒業後にアメリカ球界復帰を果たすと、2008年にはダブルAクラスのリーグでチーフクルーを務めるまでになった。そんな彼を支えていたのは、学生時代からのハングリー精神と、自分の可能性に対する信念であった──。
丸山
再び審判学校から入学しなおしての、ゼロからの再出発。すでに30代後半でしたし、若きアメリカ人達と競っての挑戦に、躊躇いはありませんでしたか?
平林

ライバルはアメリカ人の20代。でも、それをきついと思わずに、よし、おまえたちと勝負してやると思っていました。年齢では負けても、体力でも、気力でも、負けると思ったことはないですから。いまの若い子は、日本もアメリカも同じで、贅沢に育っている場合が多い。だからたいしたことはないです(笑)。僕は両親が金持ちではなかったですし、大学は新聞配達をしながら自分で学費を稼いで卒業しました。みんなが親に仕送りしてもらってサークルに入って遊んでいるときも、僕はバイトをしなければなりませんでした。でもいまとなっては、それがバネになっています。

丸山
またもマイナーの底辺から登りはじめなければならない長い坂路の途中では、先が見えない不安感もあることと思います。どのようなことを考えて、日々の試合に臨んできたのでしょうか。
平林

パ・リーグを辞めた後の2年間、僕は「浪人」していました。30歳を過ぎてからの2年間ですから、そのブランクは大きい。当時はそれをマイナスに感じていました。それでも、この2年にも価値があると、勝手に思いこむことにしたんです。「勝手に思いこむ」ということが、僕は大事だと思っています。自分がやっていることは、後々かならずなにかに活かされるんだと。たとえば浪人中の2年間があったから、いま、タイミングよくトリプルAまで昇格できたんだとか、都合良く捉えてしまうんです。また、「勝手に思いこむ」といえば、自分がメジャーリーグの試合の球審を務めている姿を想像することで、自分自身を鼓舞したりもしています。さいわい審判という職業は、マイナーもメジャーも、やっていることはそれほど違いがないので想像しやすい。目標を強くイメージすることが、僕のパワーの源という気がします。

丸山
第三者から無謀と思われた平林さんの挑戦には、審判をやりたいからという「純真」が、強烈に後押ししているように見えます。しかしいまの30代、40代の多くには、ともすると無我夢中になって挑める「なにか」を、見つけられないでいるような気もします。
平林

メジャーの審判までたどりつけるのは、審判学校を卒業した生徒の、ほんの数パーセントに過ぎません。メジャーのレギュラー審判は68人しかいないので、それこそ、選手としてメジャーリーガーになること以上の狭き門かもしれません。人にその夢を語ったとき、誰も信じてくれませんでした。もしかしたら嫁さんでさえ、「大丈夫なの?」と不安だったかもしれません。でも、自分だけは、かならずチャンスはあると信じきっていました。自分さえ信じていれば、不思議と、少しずつ門は開かれていくものだと思っています。

見えてきた、メジャーという頂きを目指して。

――
2009年、日本人初となるトリプルAクラスへの昇格が決定的な平林さん。最初に渡米してから、じつに17年の歳月が流れた。このまま順調にいけば、近い将来、平林さんが日本人初のメジャーリーグ審判になることは間違いない。中学生のときから一つの夢を追いかけ、それを実現しようと邁進する過程において見えてきた、メジャーリーグという最高峰。日本での不採用に始まり、審判学校への再入学など、幾多の苦難を経て、ようやく、その頂きへと辿り着こうとしている。そんな夢追人が語る、現在、そして未来──。
丸山
いよいよメジャーリーグまで手が届きそうなトリプルAクラスまで到達しました。ここに至るまでに必須だったと思われる要素は?
平林

語学力や適応力など、必須要素は数多くあります。でも僕は、渡米する前のチャレンジャー精神こそが、なにより欠かせなかったと感じています。僕は、「やってみなければわからない」という言葉が好きです。人は、予測できないことには、なかなか一歩目を踏みだそうとしません。頭で考えただけで、無理だと思って行動したがらない。僕の2度目の渡米のときは、誰が見ても、将来を予測できなかったでしょうし、無理だと結論づけされたかもしれません。でも僕は、年齢や環境を理由にして一歩目を踏みだそうとしないのは、自分の夢から逃げていることと同じじゃないかと思ったんです。もうすぐ40歳になるからできない、家族がいるからできない、それでは自分の夢に対して誠実じゃないと。何歳になっても、どんな環境でも、夢を実現できる方法を一生懸命模索することで、1パーセントしかなかった可能性を、50パーセントに広げることだってできるんです。

丸山
近い将来、もしメジャーリーグで審判を務めるという夢を果たされたとしたら、その後の新たな人生設計は、もう描かれているのでしょうか。
平林

僕はメジャーで20年、30年と長くやりたいという気持ちはないんです。10年くらいできればいいかなと。松坂選手が投げて、城島選手が受けて、松井選手が打って、イチロー選手が走って……。そんな試合を、自分が裁けたら面白いだろうなと(笑)。メジャーから退いた後は、若い審判を育てたいですね。日本で審判の育成機関を作って、アメリカに渡っていけるような審判がたくさん生まれてくれたらいいですね。アメリカはまだ白人社会ですから、そんななかに、アジア人審判が裁く立場でいるということは、今後のアジア人のさらなる地位確立のためにも大切なことかもしれないと思うんです。メジャーで初のアジア人審判を目指している僕には、そういう責任もあるのかなと感じています。

丸山
最後に、いま、転職を考えている30代、40代に、力強いメッセージをお願いします。
平林

やってみなければわからない! やはり、それに尽きると思います。迷っているなら、まずは、一歩目を踏みだしてみる。無理だと最初から諦めてしまうよりは、やってみて、失敗するほうが、その後の人生にとってはるかにプラスになると思います。僕は、「失敗」なんて、人生にはないんだと思っています。すぐにこの世を去らなければならないならまだしも、まだまだ先があるわけじゃないですか。その失敗を次に活かすことができれば、それは失敗ではなく、ステップに過ぎないわけです。失敗することを怖れたら、なにもできずに終わってしまう。せっかく生まれてきたんだから、なにもしない人生なんて、つまらないでしょ。

構成:平山譲

※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。

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