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ハイクラス転職のクライス&カンパニー

連続する苦悩のなかで掴んだ、輝かしい栄光をもかなぐりすて、挑みつづける、野球道の極みへ。

Special Interview
「日本の30代、40代を熱くしたい」日頃この世代の方々とお会いしていてずっとこんな思いがありました。
そんな中この思いに賛同していただいたお二人(メジャーリーグでエージェントをされている三原徹氏と、
ノンフィクション作家の平山譲氏)のご協力を得て、ようやく実現した企画が「転機をチャンスに変えた瞬間」です。
第一線でご活躍されている方にも転機は必ずあったはずです。
その転機でチャンスをつかんだ、ピンチをチャンスに変えたからこそ今の活躍があるのだと思います。
その瞬間にはたらいたエネルギーの根っこにあるもの、ものすごいプレッシャーの中精神を支えたものとは。
ご登場いただく方々のメッセージを読んで、みなさんが熱く、熱くなっていただくことを強く祈念しております。

クライス&カンパニー 代表取締役社長 丸山貴宏


プロ野球選手 石井琢朗氏

1988年、ドラフト外で横浜大洋ホエールズ(当時)に入団。1年目から初勝利を記録するなど活躍するも、1992年からは野手転向を直訴。その年に三塁手として定位置を奪い、1993年には盗塁王とゴールデングラブ賞を獲得。オールスターにはその後1997年から5年連続で出場。
1996年には三塁手から遊撃手へとコンバート。1997年からは1番に定着し、2001年まで5年連続でベストナインに選出される。
1998年には「マシンガン打線」の1番打者として、初の最多安打、2度目の盗塁王、4度目のゴールデングラブ賞を獲得し、チーム38年振りとなるリーグ優勝と日本一に貢献。同年、球団創設史上初となる最多得点も獲得し、日本シリーズでは優秀選手に選ばれる。
1999年には通算1000本安打、1000試合出場、200盗塁を達成。同年、1試合最多得点となる6得点も記録。
2006年には史上34人目となる2000本安打を達成。投手として勝ち星を挙げた打者としては川上哲治以来2人目、またドラフト外入団選手としても秋山幸二以来2人目となる快挙となる。
2009年シーズンより、広島東洋カープへ移籍。レギュラーの活躍を期待されている。

インタビュアー

クライス&カンパニー 代表取締役社長
丸山 貴宏
キャリアコンサルタント
松尾 匡起

Message

Interview

ドラフト外入団という「無名」からの出発。

――
少年時代からプロ野球選手を夢見て、足利工業高校時代には投手として甲子園出場まで果たした石井琢朗さん。しかし、念願のプロ球団からスカウトされたものの、ドラフトでの指名ではなく、「ドラフト外」で横浜大洋ホエールズに入団することに。大学進学が決まっていたことや、174センチ75キロとプロとしては小柄な肉体が不安視され、周囲からはプロ入りを反対された。それを、人並み以上の努力と、同じ年に入団したドラフト上位の選手たちには負けたくないという不屈の精神で見事はねかえす。1年目にして1軍入りを果たし、同じ高卒新人のドラフト1位指名の谷繁元信選手とのバッテリーで、プロ初勝利も記録した。以後長きにわたり、プロ球界という厳しくも華やかな世界で生き抜いてきた選手の、転機をチャンスに変えた瞬間とは──。
丸山
まず、プロ野球選手になりたい、野球を職業に、という思いが芽生えたのはいつだったのでしょうか。
石井

僕は小学3年生から本格的に野球を始めて、以来ずっと、プロ野球選手になるのが夢でした。プロに行くなら高校野球で甲子園に出るのが近道で、そのためには県南の強豪校に入ろうと、推薦をもらうために勉強も頑張りました。高校に入学するときの推薦面接では、将来エンジニアになりたいです、と応えてはいたんです。でも本心では、野球をやることしか頭にありませんでした。その野球も、将来的に職業にするというところまでは考えが至っておらず、趣味や特技の延長線上に、プロ野球という世界があるという認識でしかなかったんです。実際に甲子園に出てからも、プロ野球選手になることは、子供が思いえがくような、漠然とした夢でしかなかったですね。しかも、高校3年生のときは、投手としてすっかり自信をなくしてしまっていた時期でもあったので、プロは無理だと自分から諦めてしまって、大学へ推薦入学する道を選択しようとしていたんです。

写真
丸山
プロ入りについてですが、ドラフト上位指名はおろか、「ドラフト外」での入団には、周囲からの反対もあったと聞きます。まだ10代の頃の決断ですし、迷いや不安もあったかと思うのですが。
石井

大学進学を考えていた折に、球団スカウトの方から「ドラフト外で」というお話をいただきました。一時は諦めていたプロ入りですが、そうお声をかけていただいたことで、ドラフト外でもいいから夢を掴んでみたいと思い、大学を断ったんです。幼い頃からプロになるために一緒に練習してくれた父は、僕の意志に理解を示してくれました。しかし母には、プロ入りを反対されました。気持ちはわかるけれど、せっかく大学進学が決まっているのに、なぜそれを蹴ってまで安全ではないプロの世界に飛びこまなければならないのかと。僕自身も、迷いや不安はありました。でもどうしても、野球以外の職業に就いている自分を想像できなかったんです。せっかくチャンスをいただいたのに、ここで諦めてしまったら後悔するんじゃないかとも思えましたし。成功できるかわからないけれど、失敗するともかぎらない。ならばまず、夢を掴んでしまってから、がむしゃらに頑張ればいいじゃないかと思えたんです。

丸山
プロ入りした同じ年には、7人もの高卒ルーキーがいました。ドラフト上位で指名されてきた彼らには負けたくないという気概もあったと思います。そしてプロ入り1年目に、いきなり初勝利を挙げたわけですが、「ドラフト外」からの躍進を支えた裏にはどのような思いがあったのでしょうか。
石井

高校時代の監督さんが、資料を集めるのがお好きな方だったんです。僕がプロ入りするにあたり、その監督さんが、ドラフト外で入団したり、背丈が低いのに成功したりした過去のプロ野球選手のデータを集めて、僕に贈ってくださったんです。それにはすごく勇気づけられました。過去には、ドラフト外でも、背丈が低くても、偉大な選手がたくさんいたという事実に励まされました。それを見ながら、僕もプロで活躍するために、体力なら自信があるから、1年目からそれをアピールすることで目をつけてもらえればいいじゃないかと考えることができました。他の高卒ルーキーたちには負けたくないという気持ちもあったし、かえってマイナス面だと思われていたことが、プラスに働いたようなところがあったかもしれません。

やりがいを求めて、投手から野手へ「転身」。

――
投手として、いきなり初勝利を挙げ、2年目にはジュニアオールスターに出場するなど、10代にして進むべき道を切り開きつつあった石井琢朗さん。しかし、3年目が終わると、突然野手への転向を首脳陣に直訴する。監督には猛反対されたが、少年時代から積み上げてきた投手としての成功をすべて捨て、打撃、守備、走塁を、ゼロから学んでゆくことを選択する。それは、「野球を心から楽しみたい」という、自分の心に正直であろうとしたがゆえの決断であった。背番号を66から0に変更し、転向1年目には出場69試合で10個の失策、33個の三振を喫しながらも、内野手として着実に定位置を固めていき、59本の安打と、3本の本塁打を記録した。それが、のちに名球会入りを果たす、偉大な野手としての石井琢朗さんの始まりであった──。
丸山
投手として活躍しつつあった中で、なぜ野手への転向を自ら志願されたのでしょうか。投手としてプロ入りを果たしたその可能性を放棄し、しかも、すでに実績もありながら、野手としてゼロから再出発するということには、たいへん勇気がいることだと思うのですが。
石井

じつは高校3年生のときから、投手としての自信を失いかけていて、もう無理かもしれないなという気持ちがあったんです。それがプロに入ってからもずっと煮えきらないまま残っていました。そして、投手は無理でも、野手ならやれるんじゃないかという気持ちも芽生えていました。打つこと、守ること、走ることは、投げること以上に自分の性に合っていたし、なにより、野手としてグラウンドに立つことを想像すると、とても楽しそうに思えたんです。高校時代は、投手でも打撃や守備や走塁の練習があったので、野球をしているという実感があったのですが、プロに入ると、投手は危険だからそういう練習は駄目だといわれてがっかりしました。夢が叶ってプロ野球選手にはなれたものの、このまま投手として活躍できなかったら、きっと悔いが残るんじゃないかと思えたんです。好きなことに挑戦できたなら、結果が出ようが出まいが、自分の選択に責任を持てるし、後悔せずにいられるんじゃないかと。2年目からコーチに直談判を始めて、3年目に監督と話しあったときには激怒され、「話にならん!」と監督室を出て行かれてしまったほどに反対されましたが、最後は折れてくださって、転向を認めていただきました。

丸山
打撃、守備、走塁を、プロとしてすべてゼロから積みあげていかなければならないことは、途方もなく嶮しい山を登る挑戦だったと想像します。多くの失敗を重ねながら、それでも2年目にはタイトルまで獲得される活躍振り。その陰には、すさまじい努力があったのでしょう。
石井

高校時代、投手をしないときには外野を守らせてもらう程度だったので、内野の守備練習なんて経験なかったですし、打撃も走塁も、ほとんどプロに入ってから覚えたことばかりです。守備は、捕球できるだけでは駄目で、グローブの芯で捕らなければならない。打撃は、球をバットに当てるだけでは駄目で、詰まらせずに飛ばさなければならない。練習は辛かったし、苦しかったです。かなりレベルは低かったですから。でもその一方で、僕は練習を積みかさねていくことでぐんぐん上達すると、辛く苦しい練習も、新鮮なことばかりだし、心から楽しむことができたんです。やっぱり野手はいいなと。

丸山
サードやショートでレギュラーとして活躍し、ゴールデングラブ賞を獲得するまでになったわけですが、プロ入り後に野手に転向しての栄誉だけに、苦労したぶん、喜びもひとしおだったのでは?
石井

野手としての経験がなかったということは、もちろんマイナス要因でしかありません。でも、僕は根っからのプラス思考で、野手としての経験がないということを、癖がないぶん、コーチが教えてくださったり、先輩のプレーを見たりすることを、何でもスポンジみたいに吸収することができるじゃないかと考えたんです。幸い僕がサードを守りはじめた頃には、ショートに進藤選手というとても守備がお上手な先輩がいらして、いつも僕は、お手本を見るつもりで、隣で練習させていただきました。しかも僕は、守ることが好きで、野手になりたくて自ら志願して転向させてもらった身だったので、受け身で練習するのではなく、貪欲に、積極的に覚えようという気になれました。好きなことをすることこそ、上達への近道ですよね。

打撃不振と二軍落ちのなかで見つけた「原点」。

――
三塁手としてレギュラーポジションを奪った野手転向2年目にして、盗塁王とゴールデングラブ賞を獲得した石井琢朗さん。その後はオールスターの常連選手となり、ショートへコンバートされてからも、ベストナインに輝く活躍振りを見せる。もはや押しも押されもせぬ球界不動のリードオフマンとなったが、突然、不調の波が押しよせる。2002年、打率が8年振りに2割8分を下回り、翌2003年には100安打にも届かずに、打率は2割3分1厘という、野手転向後最悪の数字に。周囲からは限界説、若手との世代交代まで囁かれはじめた。監督から先発落ちを命じられると、自ら志願してレギュラー定着後初の2軍行きを選択する。若者たちと、汗まみれ、泥まみれになって喘ぐ日々。そこで彼は、なにを見つけ、どのように這いあがり、そして、2000本安打達成の大記録へと登りつめたのだろうか──。
丸山
2000本安打の大記録も視野に入ってきた折りに、突然襲ってきたスランプ。キャリアの中では、好調な時期ばかりではなく、不調な時期こそ、人をさらなる成功へ導く手がかりがあるようにも思えますが。
石井

初めて不調を経験するまでは、「攻め」の気持ちだけで、どんな逆境にも耐えて突っ走ってきました。僕にとっての野球は、少年時代同様、趣味や特技の延長線上でしかないといった感じだったんです。それが、子供が生まれて家族が増えたことで、野球を「職業」として意識しすぎてしまったことで、弱さが出ましたね。精神的に「守り」に入ってしまったんです。2002年に1500本安打を記録したあとには、ああ、1年間に150本ずつ打っていれば、2000本はあと数年でいけるなと、そんなことを考えるようになったんです。すると、なぜか2000本という数字が、重くのしかかってきてしまって、ぼろぼろに崩れていきました。ヒットが出ずに不調のときは、精神的にきつくて、鬱のような状態でした。一度不調になってなかなか復調できずに引退していく選手って、こんな感じなんだろうなと考えたり。人って、守りに入ると、こんなにまで脆いものなんだと思いました。

丸山
自ら2軍落ちを志願し、若者との生存競争に身を置かれたということですが、石井さんの野球人生を振りかえると、「いつでも原点へ回帰できるがゆえの強さ」を感じます。
石井

「明日からリフレッシュしろ」と監督にスタメンを外されたとき、自分のポジションに代わりの選手がいるのをベンチから見ることが、はたして気分転換になるのかなと思えたんです。逆にストレスがたまるんじゃないかと。だから翌日、自分から監督に、二軍に落としてくださいとお願いしました。とにかく、自分の選手としてのキャリアをすべてリセットして、もう一度初心に戻って「攻め」の気持ちで野球に取り組んでみようと思ったんです。他人にはどう見えていたかわかりませんが、僕にとっては精神的にどん底でした。でも、考えてみれば、若いとき、野手に転向したばかりのときも、ゼロから、どん底からのスタートだったんですよね。それなら、またその下積み時代に戻ってやり直せばいいだけじゃないかと。そして二軍では、若い選手に交じって大声出して、汗や土埃にまみれて野球ができて、よし、またここから這い上がってみようと、原点に帰ることができました。もし、あのまま1軍で燻っていたら、たぶんそのままだったような気がします。

丸山
2000本安打や、通算安打の球団記録更新と華々しい復活をされ、「ミスターベイスターズ」としてさらなる輝きを放たれました。ここまでに最も必要だったと思われる精神を一つだけ挙げるとすると?
石井

振り向かないこと、でしょうか。ひとまず過去の実績はどこかへ置いておいて、いつでも現在の目標に一生懸命になって挑戦すること。たとえば今回の移籍についても、横浜というチームに長年お世話になってきて、そのチームが強くなってほしいという気持ちがあるんです。いまはチーム全体が若返りの時期で、大きな変革を迎えています。その状況で、将来性を考えた選手の起用法をしているなと客観的に思えました。もし僕がチームを去ることがプラスなら、若手にチャンスを与えるべきかもしれないと、悟っていた部分もありました。だから僕は、過去にしがみつくより、新たな一歩を踏みだしてみようと。そしていま、移籍が決まって、ずっともやもやしていたもの、背負っていたものを全部おろして、新鮮で、すがすがしい気持ちで挑みはじめられています。

「求められること」の幸せを感じつつ、新天地へ。

――
2006年、ドラフト外入団選手としては秋山幸二選手以来史上2人目、投手として勝ち星を挙げた選手としても川上哲治選手以来史上2人目となる、通算2000本安打を達成した石井琢朗さん。さらに同年には、球団最多安打記録であった松原誠選手の通算2081本を塗りかえ、自己最多となるシーズン174安打を放って完全復活を果たした。だがオフに膝を手術したこともあり、2007年には連続試合出場が途絶え、またシーズン終盤には死球を受けた際に右手首を骨折してしまう怪我にも見舞われる。そして先発出場機会が激減した昨年のオフ、「ミスターベイスターズ」とまで呼ばれた彼が、球団から戦力外通告を受けることに。けれども、彼は諦めなかった。国内外を問わずに移籍先を探し、広島東洋カープへと移籍。1億2500万円あった推定年俸は2000万円に。それでも今年39歳になる大ベテランは、実績やプライドをかなぐりすて、初心にかえり、新天地でレギュラー奪取に挑む──。
丸山
野球選手が「潮時」を口にするとき、まだ現役続行を望まれているうちに、惜しまれつつやめていきたいとする選手が多いように思われます。しかし石井さんは昨年、「引退」を選ばず、「戦力外通告」されることを拒みませんでした。そして、自身の実績に見合っているとはいえない低年俸での広島への移籍を選択。前述の「引き際」とは異なる美学をお持ちのように感じます。
石井

以前は、少し余力を残して格好良く現役を引退していこうと心に描いていました。でも、最近になって、野球ができることの幸せを考えるようになると、ボロボロになってもやりたいという思いがつきあげてきたんです。僕から野球という仕事をとってしまったら、いったいなにが残るんだろうかと。いくら年俸が下がったといっても、僕がそれだけの給料を稼げる職業なんて、他にはないですから。引退するのは簡単です。でも、引退しまったものは、もとには戻らないですし、可能性をゼロにしてしまうということでもあります。現役でつづけてさえいれば、年俸を上げる可能性を追求できるわけですから。現状に感謝して、謙虚に野球をつづけさせてもらうという意味での、広島への移籍という選択だったんです。

丸山
プロ野球選手になること、野手として成功すること、そして2000本安打……。数々の夢を実現されてきた石井さんですが、これより先の将来、どのような新たな夢を描いていますか。
石井

もういちどタイトルをとりたいとか、日本一を経験したいという思いはあります。でも、いまは、過去を誇らず、未来を望まず、とにかく現在を一生懸命生きてみようと。多くを願わずに、ひたむきに現在を積みかさねてゆけば、未来は自然と訪れるのかなと思っています。僕は、一度は底まで下がった人間ですから、それを謙虚に受けとめてやっていきたい。一日一日を大切にして、野球を、一日でも長くつづけること。それが、夢といえば夢なのかもしれませんね。

丸山
最後に、いま、転職を考えている30代、40代に、力強いメッセージをお願いします。
石井

転職すべきかどうか迷っているのに、一歩を踏みだせずにいるというのは、いままで自分が残してきた実績や、それに伴うプライドが邪魔をしていることもあると思うんです。そういう気持ちは僕にもありました。でも、それを取りのぞいて、もういちど自分自身を見つめなおしてみる。それと、恩師から頂いた「ワースト・コンディション・イズ・ベスト・コンディション」という言葉を、僕は大切にしてきました。どんな最悪な状況でも、いまこそが最良の状況だと思えば、なんでも挑戦できるじゃないかと。現状に不満をいうのではなく、プラス発想でその現状を変える勇気を持ってみる。転機をピンチと思っている人が多いかもしれませんが、転機はチャンスでもあるんですから。

構成:平山譲

※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。

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