ハイクラス転職のクライス&カンパニー

もっと多くの人に宇宙を体験してほしい。きっとそれは、世界平和にも繋がっていく。

公開日:2016.11.22

2010年、日本で二人目の女性宇宙飛行士として、国際宇宙ステーション(ISS)の組立・補給ミッションに参画した山崎直子さん。現在は内閣府の宇宙政策委員会の委員を務められているが、宇宙飛行士としてのご自身の体験を次代にどのように繋げていこうとされているのか、当時の思い出とともにお話をうかがった。
山崎直子氏のプロフィール写真

山崎 直子 氏プロフィール

宇宙飛行士

千葉県松戸市生まれ。東京大学大学院工学系研究科修了後、宇宙開発事業団に入社。1999年国際宇宙ステーション(ISS)の宇宙飛行士候補者に選ばれ、2001年認定。2004年ソユーズ宇宙船運航技術者、2006年スペースシャトル搭乗運用技術者の資格を取得。2010年4月、スペースシャトル・ディスカバリー号で宇宙へ。ISS組立補給ミッションSTS-131に従事した。2011年8月JAXA退職。内閣府宇宙政策委員会委員、日本宇宙少年団(YAC)アドバイザー、松戸市民会館名誉館長、立命館大学および女子美術大学客員教授、日本ロケット協会理事・「宙女」委員長、一般財団法人BEYOND Tomorrow評議員、一般財団法人ワンアース名誉顧問などを務める。著書に「宇宙飛行士になる勉強法」(中央公論新社)、「夢をつなぐ」(角川書店)、「瑠璃色の星」(世界文化社)など。

Message

志あるハイクラス転職を、クライスと クライス&カンパニー

Interview

「体験」が大切。生き方に大きな影響を与えたアメリカへの留学経験。

――
山崎さんは中学時代、スペースシャトルのチャレンジャー号爆発事故のニュースをご覧になられて、宇宙飛行士を志すようになられたとうかがいました。
山崎

ええ。チャレンジャー号の事故はとても悲劇的な出来事で衝撃を受けましたが、でもそこで、SFやアニメの世界ではなく、現実の世界に本当に「宇宙開発」の仕事があることを実感し、亡くなった方々の遺志をいつか継げたらと、自分の将来の道として宇宙飛行士を意識するようになりました。ただ、どうすれば宇宙飛行士になれるのかもわからず、まずは宇宙開発に携わることが出来るように、大学では航空宇宙工学を専攻しようと……でも後でわかったのですが、宇宙飛行士というのは実は医師とか教師とか研究者とかいろんなバックボーンの方がいて、理系であれば専攻は関係なかったんですね。将来的には、文系の人や芸術家など、もっと幅広い人が宇宙飛行士になれるといいと思います。

――
そこからの大学時代は、ご自身の夢に向かって宇宙開発の研究に没頭されていたのでしょうか。
山崎

大学時代はいろいろなことに興味が及んでいましたが、宇宙に関わりたいという気持ちは軸にありました。もともと「ものづくり」が好きだったので、エンジニアリングも面白いと感じていましたし……大学生の時に1カ月間、工場実習で大手重工メーカーの工場に赴いて航空機のジェットエンジンの整備ラインを経験したのですが、その経験はいまでもとても印象に残っています。工場実習中に工場内で会社主催の夏祭りが開催され、社員のご家族の方々も参加されていたのですが、ちょうど夕方の空に飛行機が飛んでいくのが見えたんですね。するとあるエンジニアの方が幼い息子さんに「あれはパパがつくった飛行機だよ」と。息子さんもうれしそうで、自分の仕事を我が子に誇りを持って話せるなんてとても素敵だなと、私もぜひそんな経験がしたいと思いました。

写真
――
大学院時代には、海外留学もご経験されていらっしゃいますね。
山崎

海外で一度暮らしてみたいという思いはずっと持っていました。中学の時、アメリカのオハイオに住んでいる子と文通していたことがあって、彼女が現地の写真をたくさん送ってくれて……その風景を見て、自分に知らない世界にとても憧れるようになって、いつかは海外に行ってみたいと。そのうち大学院生になり、社会に出たらもう海外で生活するようなチャンスはなかなかないだろうと思って、大学院2年の時に1年休学してアメリカのメリーランド州立大学に思い切って留学しました。結果として、それは私にとって本当に貴重な経験になりました。向こうでアメリカ人だけではなく、ヨーロッパやアジアなどのさまざまな国々の学生たちと交流して、「国が違えばこんなに考え方が違うのか」と驚いたり、逆に研究や実験に対する思いは同じで共感を覚えたり、様々な人たちと一緒に学ぶのが楽しかった。その時、自分の知らない世界を「体験」することが大切だと強く感じて、この留学経験はその後の私の生き方に強く影響しているように思います。

――
大学院修了後、山崎さんは当時の宇宙開発事業団(NASDA現・宇宙航空研究開発機構 (JAXA))に就職されていますが、これは当初から希望されていた進路でいらっしゃったのですか。
山崎

ええ。留学先のメリーランドの隣がワシントンD.C.で、当時そちらにNASDAの駐在事務所があったんです。ワシントンD.Cでは宇宙関連のシンポジウムや学会がたびたび開かれていたのですが、私自身やはり興味がありましたし、距離的に近かったこともあって、よく通っていたんですね。そのうちNASDAの方々とも知り合いになって、いろいろな話をさせていただくうちに、宇宙に関わる憧れがいっそう募ってNASDAを志望しました。

「好き」が最大のエネルギー源。だから宇宙飛行士の過酷な訓練も楽しかった。

「好き」が最大のエネルギー源。だから宇宙飛行士の過酷な訓練も楽しかった。

――
そして3年目に宇宙飛行士の選抜試験にパスされます。いよいよ夢がかなったというわけですね。
山崎

実は大学院で留学中の時にも、宇宙飛行士の募集があって応募していたのですが、そこでは書類審査で玉砕していて(笑)……ですから、試験を何とかパスした時は本当にうれしかったですね。

――
宇宙飛行士として選抜されてから、実際に宇宙に飛ぶまではかなりの時間がありました。すぐにミッションに関わるわけではなかったのですね。
山崎

私は、当初ISSが完成した後に長期滞在する乗組員として選抜されましたが、訓練の間に、スペースシャトルのコロンビア号の事故が発生し、計画自体が大幅に遅延する事態になりました。

――
コロンビア号の事故に際しては、どのような心境でしたか。
山崎

実はコロンビア号の事故の時、私は長女を出産して育児休暇を取っていました。コロンビア号の乗員の方のなかには私が知っている方もいらっしゃって、他人事ではありませんでした……追悼式にも日本から駆けつけたのですが、すでに子供がいらっしゃる女性の乗組員の方のご家族が悲嘆にくれているのを目の当たりにして、もしこんな状況が私の家族に降りかかったら、と考えざるを得ませんでした。宇宙飛行士を志した時から、私自身は「宇宙で死ねるなら本望」くらいに思っていましたが、家族にはそこまでの覚悟はない。万が一の時、いちばん苦労するのは家族であり、自分の夢を追いかけることが果たして家族の幸せにつながるだろうかと、思い悩んだこともあります。

――
そうした苦悩や葛藤をどのように乗り越えられたのですか。
山崎

それからは家族とよくコミュニケーションをとり、私が宇宙飛行士を目指していく歩みと、周囲の歩調を合わせるように努めました。宇宙飛行士の訓練は家族も見学できるので、そうした場もできるだけ共有しました。また、同じミッションに関わっている方々の想いも私を勇気づけてくれました。訓練してくださるインストラクターの方々や、ISSを開発しているエンジニアの方々など、みなさんの夢と一緒に宇宙に行くんだと。宇宙開発というのはきわめて裾野が広いプロジェクトであり、きわめて多くの方々の力が結集しています。だからこそ是が非でも成功させたいと思いますし、それが宇宙開発に関わる醍醐味でもあります。そうしたみなさんの想いや責任の重さと向き合い続けることで、次第に悩みも晴れていきました。

――
宇宙飛行士の訓練というと非常に過酷なイメージがありますが、山崎さんは著書の中で「楽しかった」とおっしゃっています。
山崎

確かに実際の訓練はとても厳しいこともありますが、それはどの仕事でも一緒です。非常時に備えたサバイバル訓練や、山のようにある試験も、先輩のサポート業務も、私としては宇宙のことを学べるのが純粋に楽しかった。そんな機会を与えてくれて本当にありがたいというか、幸せな思いでしたね。

――
好奇心が苦労を凌駕した、ということでしょうか。
山崎

私には何も特殊な才能はありませんが、それでも宇宙飛行士に選ばれたのは、自分の興味のあることにはとことん力を注いでいたからだと思います。好きなことに向かって努力するのは、まったく苦ではないのです(笑)。やはり「好き」というエネルギー源は、人に思いがけない力を発揮させる原動力になるのだと思いますね。

宇宙から見れば、地球はひとつの宇宙船。争いを起こしている場合ではない。

宇宙から見れば、地球はひとつの宇宙船。争いを起こしている場合ではない。

――
そしていよいよ宇宙飛行士としてミッションに参加されるわけですが、一番感動的だったのはどのようなシーンでしたでしょうか。
山崎

スペースシャトル発射後、8分30秒後で宇宙に到達するのですが、その瞬間はやはり感動しましたね。無重量状態になって体が浮いて……その時、とても懐かしい感覚に包まれたんですね。胎児のような感覚というか、私たちの身体も源をたどれば宇宙の欠片からできているわけで、『宇宙はやはり私たちにとって故郷なんだ』と。それは私の個人的な感覚かと思っていたら、他の国の宇宙飛行士の中にも同じように感じたと言う人もいました。そして、初めて宇宙から青く輝く地球を見た時も心がふるえましたし、3日後にISSに到着した時も感動しました。最初は星のように小さい点に見えていたISSが、近づくにつれてだんだんその姿が明らかになってきて、そのうちスペースシャトルの窓一面に巨大なISSが現れて……。ISSに備え付けられた太陽発電パネルが、太陽の光を受けてキラキラと輝いている姿は本当に美しい光景でした。そして、これだけのものを作り上げることが出来る人間の力にも、あらためて畏敬の念を感じました。

――
ぜひ子供たちにも体験させてあげたい世界ですね。
山崎

ええ、ぜひもっと多くの人に宇宙を体験してもらいたいですね。最近は宇宙飛行士の身体的な応募要件も緩くなっていて、虫歯があっても問題ないですし、視力もコンタクトレンズや眼鏡で矯正できればOK。年齢の上限もなく、最高齢では77歳で宇宙飛行した方もいらっしゃいます。そして宇宙を体験すれば、きっと誰もが地球がひとつの宇宙船ということを実感し、この中で争っている場合じゃないと、そんな感慨を抱くようになるのではと思います。ですから、他の方も仰っているのですが、サミットやオリンピックやパラリンピックなどもぜひ宇宙で開催できたらいいと思っています。

――
「地球がひとつの宇宙船」という例えは、まさにISSがそうですよね。ISSは多国籍のスタッフの方々が協力して創り上げたもので、地球というのはそれがスケールアップしたものだと。
山崎

まさにおっしゃる通りです。ISSというのは言わばミニチュアの地球です。そこには国境も国籍による差別も偏見もない。皆で協力してミッションをやり遂げるという一点しかありません。我々の住む地球というのは、本来そうあるべき、そう強く感じさせられました。

――
いまお話しいただいた内容にも通じますが、山崎さんご自身はこれからどのようなテーマに取り組んでいきたいとお考えですか。
山崎

いつかはもう一度宇宙に戻りたいと思っています。そして、その時はぜひ多くの方々とご一緒したいですね。いま、民間でも宇宙ビジネスが広がっていますし、国がチャレンジングなミッションを担い、技術がこなれてきたら民間で牽引していくという、そうした両輪があれば宇宙開発が加速していくと思います。この領域で本当に意義のあるプロジェクトを推進していくなら、もっとわかりやすく言うと、誰もが宇宙旅行できるような時代にするためには、航空宇宙工学の専門家だけではなく、法律や経済、国際関係の専門家など、幅広い人材がアイデアを出しあっていくことが必要です。私としては、そうした異分野の方々をお繋ぎするような役割を果たしていきたいと考えています。

――
山崎さんがその旗振り役となって宇宙ビジネスが更に拡大していくと、いま小さな子供たちが大人になった時、宇宙を気軽に体験でき、地球を違う観点から見られるようになるかもしれませんね。先ほど山崎さんがおっしゃられた通り、宇宙ビジネスは世界平和にもつながるのだと思います。
山崎

そう、世界を変えていくためには、ひとりひとりが新たな「体験」をして、そこからいままでにない気づきを得て、地球規模で互いに理解しあうことが必要だと思います。

――
それでは最後に、この世界をこれからリードしていく次代の方々に向けてメッセージをお願いします。
山崎

私が尊敬する宇宙飛行士にジョン・ヤングさんという方がいらっしゃいます。スペースシャトル初号機の船長で、もう引退されていますが、いまでも後継の宇宙飛行士の育成に力を注がれています。その方がおっしゃっていたのは、“Risky to change. Riskier not to change(変えるにはリスクが伴う。変えなければより大きなリスクが伴う)”ということ。いまでも私は自分を奮い立たせるために常にこの言葉を思い起こしています。若いみなさんも是非、このマインドで新たなチャレンジをしていただきたいと思っています。宇宙飛行士になるという大きな困難を伴う壮大な目標を、「好き」というエネルギーを源泉にし見事達成された山崎さんですが、そのお人柄に驕るところは一切なく、自分よりも頑張っているのは周囲の方々であるという謙虚な気持ちを常にお持ちの方でした。その功績の裏側には、多くの葛藤があったことは想像に難くありませんが、周囲に常に感謝し続ける山崎さんの姿勢そのものが、成功を手にされる最も重要なポイントであったのだろうと感じさせていただきました。 また、今回のインタビューでも関連してお話ししていただきましたが、山崎さんがその母なる宇宙から地球をみたときに抱いたのは、「どんな悲惨な災害が起きても、飢餓や貧困、差別や格差があろうともこの地球は美しい」との思いだったと言います。「一つの宇宙船ともいえるこの地球では、争いなどしている場合ではなく、皆で協力しミッションをやり遂げる。我々の住む地球というのは、本来そうあるべき」と語られる山崎さんは、地球に戻られた今「次代へ繋いでいく世界平和」を見据えたご活動をなされていらっしゃいます。 「この美しい地球を守り、より良くして次の世代へ繋げていく」、「世界平和」というと自分には少し遠い話のように感じてしまいますが、山崎さんの純粋な笑顔と共に発せられる謙虚ながらに強い意志のこもった言葉の数々に終始心震えるインタビューとなりました。 今回は誠にありがとうございました。

構成: 山下和彦
撮影: 櫻井健司

※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。

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インタビューを終えて

宇宙飛行士になるという大きな困難を伴う壮大な目標を、「好き」というエネルギーを源泉にし見事達成された山崎さんですが、そのお人柄に驕るところは一切なく、自分よりも頑張っているのは周囲の方々であるという謙虚な気持ちを常にお持ちの方でした。その功績の裏側には、多くの葛藤があったことは想像に難くありませんが、周囲に常に感謝し続ける山崎さんの姿勢そのものが、成功を手にされる最も重要なポイントであったのだろうと感じさせていただきました。 また、今回のインタビューでも関連してお話ししていただきましたが、山崎さんがその母なる宇宙から地球をみたときに抱いたのは、「どんな悲惨な災害が起きても、飢餓や貧困、差別や格差があろうともこの地球は美しい」との思いだったと言います。「一つの宇宙船ともいえるこの地球では、争いなどしている場合ではなく、皆で協力しミッションをやり遂げる。我々の住む地球というのは、本来そうあるべき」と語られる山崎さんは、地球に戻られた今「次代へ繋いでいく世界平和」を見据えたご活動をなされていらっしゃいます。 「この美しい地球を守り、より良くして次の世代へ繋げていく」、「世界平和」というと自分には少し遠い話のように感じてしまいますが、山崎さんの純粋な笑顔と共に発せられる謙虚ながらに強い意志のこもった言葉の数々に終始心震えるインタビューとなりました。 今回は誠にありがとうございました。

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