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ハイクラス転職のクライス&カンパニー

もっと、上手くなりたい。純真でメジャーに挑んだ、永遠の野球小僧。

Special Interview
「日本の30代、40代を熱くしたい」日頃この世代の方々とお会いしていてずっとこんな思いがありました。
そんな中この思いに賛同していただいたお二人(メジャーリーグでエージェントをされている三原徹氏と、
ノンフィクション作家の平山譲氏)のご協力を得て、ようやく実現した企画が「転機をチャンスに変えた瞬間」です。
第一線でご活躍されている方にも転機は必ずあったはずです。
その転機でチャンスをつかんだ、ピンチをチャンスに変えたからこそ今の活躍があるのだと思います。
その瞬間にはたらいたエネルギーの根っこにあるもの、ものすごいプレッシャーの中精神を支えたものとは。
ご登場いただく方々のメッセージを読んで、みなさんが熱く、熱くなっていただくことを強く祈念しております。

クライス&カンパニー 代表取締役社長 丸山貴宏

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メジャーリーガー 松井稼頭央氏

1975年大阪府生まれ、メジャーリーガー。PL学園高校時代は投手として活躍、甲子園にも出場。
1994年、ドラフト3位で西武ライオンズに入団。内野手、スイッチヒッターに転向。
1997年には62盗塁で盗塁王になるなどリーグ優勝に貢献。 同年のオールスターゲームでは1試合4盗塁の新記録を樹立してMVPを獲得。1998年にはシーズンMVPを受賞。2002年にはスイッチヒッターとしては史上初の3割30本塁打30盗塁の「トリプルスリー」を成し遂げ、「センチュリーベストナイン」にも選出。2004年、メジャーリーグのニューヨーク・メッツにFA移籍し、初の日本人内野手メジャーリーガーとなった。
2004年の開幕戦では、メジャー史上初となる開幕戦新人初打席初球本塁打を記録。その後は怪我もあり、2006年シーズン中にコロラド・ロッキーズへトレード移籍。。
2007年はプレーオフで逆転満塁本塁打も放つなどリーグ優勝の原動力に。ワールドシリーズでは、岡島秀樹や松坂大輔が所属するボストン・レッドソックスとの対決となり、史上初の日本人直接対決が実現。
2007年オフ、ヒューストン・アストロズと3年1,650万ドル(推定)で契約して移籍した。

インタビュアー

クライス&カンパニー 代表取締役社長
丸山 貴宏
キャリアコンサルタント
松尾 匡起

Message

Interview

メジャーに触れて感じた、凄さと楽しさ。

――
走攻守三拍子揃った華やかなプレーぶりの陰では、地味で粘り強い努力を続けてきた松井稼頭央さん。投手として高校時代に活躍しながらも、肘を痛めて3年生最後の夏は甲子園行きを逃した。プロ入り後に野手、そしてスイッチヒッターに転向し、走塁も、打撃も、守備も、一から練習を重ねてレギュラーの座を掴み取った。そして、日本を代表する遊撃手へと成長すると、さらなる高み、メジャーリーグへと移籍。日本で築き上げた地位にしがみつくことなく、言葉や習慣も異なる海外へ渡り、再び、一からの挑戦を始めた。「世界一になる」という夢を追い続けるメジャーリーガーの、転機をチャンスに変えた瞬間とは──。
丸山
まず、メジャーリーグという世界最高峰のリーグを意識し、目標に据えた時期ときっかけについて教えていただけますか。
松井

「僕は幼い頃から、日本のプロ野球をテレビで見たことしかなかったですし、当然そこを目指して野球をしていました。それが、実際にプロ入りし、1996年に日米野球に出場できたとき、初めてメジャーリーグを意識しました。メジャーリーガーのプレーを間近に見て、実際に対戦してみて最初に感じたのは、とにかくこの人たちは凄いなと。アレックス・ロドリゲス、ランディ・ジョンソン、ペドロ・マルチネス……。世界中から野球が上手い選手たちが集っているのがメジャーなんだと実感できましたし、上には上がいるものだなと。それと同時に、そうした世界のトップクラスと一緒のフィールドで野球をしてみて、楽しいなと感じたんです。みな個性豊かで、魅力的な選手ばかりで……。そのとき、いつかは僕も、メジャーへ行ってみたいと思い、まずは日本で結果を残し、9年経ってFAの権利を得たときには挑戦したいなと」

写真
丸山
そして、日本のトッププレーヤーに成長すると、2004年、ニューヨーク・メッツへとFA移籍。「いつかは──」という思いを実現しました。
松井

「野球に限らず、なにかを追いかけている人ならば、まだ手にしていないものを求める気持ちは、止められないと思います。その『なにか』が、僕にとっては、『もっと野球が上手くなりたい』ということでした。僕は、打撃なら10割打ちたいし、守備ならエラーなしというのを理想にしています。もちろん無理なことはわかっていますが、ミスを一つでも減らしたいという思いは常に持っています。そのためには、上の世界があるなら、そこに身を置いて自分をレベルアップしたかったというのが正直な気持ちでした」

丸山
もちろん、FA権を得たときには、日本に残ってそのままプレーするという選択肢もあったわけですが、迷いはありませんでしたか。
松井

「日本の球界に育てていただいた恩があるわけですから、迷いがなかったといえば嘘になります。でも僕は、なにかを得るためには、なにかを捨てなければならないと、先輩方から教わって育ちました。僕は若い頃、年間通じて試合に出たいために、お酒も控え、遊ぶこともやめて、練習に没頭した時期がありました。メジャー挑戦も、同じですよね。いままで日本で築き上げたものを守ることに興味はありませんでした。むしろ、一から、アメリカに挑んでみたいと、そして、自分自身の力を高めたいと、それだけでした」

思うにまかせぬ逆風の中で。

――
松井稼頭央さんのメジャーデビュー戦は華々しかった。メジャー史上初となる、開幕戦新人初打席初球本塁打。日本人初の内野手メジャーリーガーの活躍に、ニューヨークのファンは熱狂した。しかし、日本では連続試合出場を続けてきたタフネスも、アメリカでは度重なる怪我に悩まされ、マイナーでのプレーも経験。メジャー復帰後も打撃や守備で不振が続くと、ニューヨークのファンは一転、彼にブーイングを浴びせはじめた。長年親しんだ遊撃手というポジションから、二塁手へコンバート。思うにまかせぬ逆風の中で、松井さんを支えた精神とは──。
丸山
メジャー移籍後、特にメッツ時代は苦しい思いも経験されたわけですが、挑戦への後悔や、日本球界へ戻ることなどが脳裡を過ぎるようなことはありませんでしたか。
松井

「怪我をしたとき、成績が残せなかったときは、苦しいと思ったこともありました。でも、自分の選択を後悔したことはありません。自分が挑戦したいと思ってここへ来たんだから、そうした壁にぶちあたることを嫌だとは思わないようにしようと。成功とか、失敗とか、そんなことは周りが勝手に結果論で評価してくれればいいことであって、自分自身は、結果を気にせず、野球が上手くなるためにここへ来たんだという思いだけ持っていればいいかなと。それに、いちばんの味方である家族がそばにいてくれて、自分のために自分の野球をしてほしいといってくれて、それが支えにもなりました」

丸山
言葉の違いを始めとする様々な環境の変化があり、そして野球自体も、日本とメジャーとでは違いもあった。そこにアジャストしていくことの難しさも肌で実感されたわけですが。
松井

「言葉が通じないなかでも、チームメートの輪のなかへ入っていかなければならなかったり。長距離の移動にも慣れながら、遠征先で試合後の深夜まで開いている夕食屋さんを探さなければならなかったり。それらを苦労と思えば、数え切れないほどの大変さが移籍後にはありました。いくら好きでも、毎日ハンバーガーばかり食べられないでしょ(笑)。それに野球にしても、ストライクゾーンの違い、日本では見たこともない変化球や速球への対応など、当初は戸惑いもたくさんありました。もし、日本にいれば、何不自由なかったかもしれません。でも、苦労はしたくはないけれど、誰もができる苦労ではないんだと。メジャーに挑戦しているからこその苦労なんだと。様々な環境の変化を、僕はプラスに捉えて慣れようとしてきました。そのうえで、どうしても慣れることができないことは、自分のスタイルを貫けばいいのかなと開き直ってみたりしました」

丸山
職場を変えて、その組織に馴染むために最も大切な要素は、どんなところだと感じていますか。
松井

「アメリカ人からすれば、当然日本人である僕は外国人です。突然見知らぬ国からやってきた僕が、チームに仲間として溶け込むためには、やはり実力を見せること以外にないですよね。僕が日本にいた頃、外国人の助っ人選手が来るたびに、どれだけやるかを見ていましたから。いくらナイスガイでも、大切な場面で打てなかったら、誰も認めてくれません。それと同時に、自分自身をアピールすること以上に、チームにどれだけ貢献できるかを考えること。実力を示しながらも、チームプレーができるかどうかですね」

変化を恐れず夢へ邁進。

――
006年シーズン中、突然のトレード移籍。ニューヨーク・メッツでは年間通じての活躍はできなかったが、新天地コロラド・ロッキーズでは、二塁手として先発出場。メッツ時代は、3年連続シーズン初打席本塁打(メジャー史上4人目の快挙)に象徴される長打力でも沸かせたが、ロッキーズでは、1番や2番打者としての役割を再認識。2007年、自己最多となる32盗塁を記録、また二塁手としても定着し、シーズン守備率.992は、二塁手リーグトップという好成績だった──。
丸山
トレード移籍は、会社員でいえば、自分の意思とは無関係という意味で、「異動」かもしれませんし、「左遷」である場合もあるでしょう。プロ生活唯一のトレード移籍を通達されたとき、どんな心境でロッキーズ行きを受けとめましたか。
松井

「それは、正直、悔しかったです。これほど悔しいことはないってくらいに。なにがいちばん悔しかったかというと、打てる打てない、守れる守れない、そんなことより、怪我をして試合に出られなかったことでした。治療に専念しているときは、テレビでさえ野球を一切見ませんでした。見てしまうと、出られていない自分が歯痒くてたまらなくなるから。ロッキーズへ移籍する際に思ったのは、その悔しさを忘れてやりなおすことではなく、悔しさを背負っていこうと。練習するとき、あえてあの悔しさを思いだして必死にやってみようと。怪我したから仕方がないで済ますのではなく、怪我も自分の責任と思い、怪我をしない体を作ろうと」

丸山
メッツからロッキーズへとトレード移籍後に、快進撃が始まりました。苦しかった時期を乗り越えて、ワールドシリーズ出場へと向かう過程において原動力になったのは、悔しさの他に、どんな思いだったのでしょうか。
松井

「怪我をしているとき、1Aから3Aまで、すべてのカテゴリーのマイナーチームでプレーしました。そこで学べたことは、メジャーを目指している若い選手たちは、ハングリーなのはもちろんですが、野球が大好きなんだなと。楽しげに練習しているし、少しでもいまの自分より上手くなろうと、みな必死でした。大切なのは、成功とか失敗とかいう結果よりも、野球が大好きかどうか、それだけだなと。大好きなら、どんなにしんどいことにも、耐えることができます。例えば、僕は、基本練習を大事にしています。それは他人から見れば、単調でつまらない練習に思われるかもしれませんが、僕は、基本がなければビッグプレーは生まれないと信じています。試合で一つの簡単なゴロを捕球するために、何千回、何万回とノックを受ける。そしてファインプレーができたとき、最高に気持ちいいですし、練習してきてよかったなと心から思えるんです」

丸山
苛酷な練習をするなかでも、自分が向上していかないとき、なかなか結果が出ないとき、どのようなことを考えて、また日々の練習や試合に臨むのでしょうか。
松井

「不安になることはあります。このままで来年もやっていけるんだろうかとか、人にはわからないプレッシャーを感じながらプレーしている部分もあります。そんなとき、僕がすべきは、悩んだり、落ち込んだりすることではなく、練習しかないと思うんです。例えば、僕は打ったり守ったりする練習は好きなほうですが、長距離を走るのはあまり好きではない。それを、オフの時期に、あえてしっかり走り込む。1年を通じて戦えるだけの体力を、その走り込みで貯金するという考え方もありますが、僕は、これだけ練習したんだから、きっとまたやっていける、そう信じるために走り込んでいる部分もあります。そして、シーズン中に、オフの間の練習を思いだして、あれだけやったんだからと思うんです」

構成:平山譲

※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。

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