ハイクラス転職のクライス&カンパニー

社会のリーダーを志すのなら、「食わず嫌い」をしてはいけない。

Special Interview

公開日:2018.08.27

世界初の携帯電話を利用したインターネットビジネスモデル「iモード」を立ち上げ、新しい時代を創るビジネスリーダーとして世界でもその名を知られる夏野剛氏。夏野氏のこれまでのキャリアのなかでの転機と決断について、クライス&カンパニー代表の丸山とキャリアコンサルタントの松尾がお話をうかがうスペシャル・インタビューをお届けする。夏野氏のリアルな言葉から、これからの時代を生きるビジネスリーダーへのヒントを探ってみたい。

慶應義塾大学
特別招聘教授  夏野 剛氏

1999年NTTドコモより世界初の携帯電話を利用したインターネットビジネスモデル「iモード」サービスを立ち上げ、ビジネスウィーク誌にて世界のeビジネスリーダー25人の一人に選出される。現在は、慶應大学で教鞭をとる傍ら、上場企業の取締役を複数社兼任。内閣官房クールジャパン官民連携プラットフォームアドバイザリーボードメンバー、東京2020マスコット選考検討会議委員など、経産省や内閣府で各種委員も務める。

インタビュアー

クライス&カンパニー 代表取締役社長
丸山 貴宏
キャリアコンサルタント
松尾 匡起

Message

志あるハイクラス転職を、クライスと クライス&カンパニー

Interview

『どうすれば自分を差別化できるか』と戦略的に考えてきた。

丸山
夏野さんのご経歴を拝見すると、新卒で東京ガスに入社されていらっしゃいます。少々意外だったのですが、どうして東京ガスを就職先として選ばれたのですか。
夏野

私は大学時代、ずっとリクルートの採用広告事業でアルバイトをしていまして、周りからはそのままリクルートに就職するものだと思われていたんですね。当時のリクルートはまだまだベンチャーで、私もアルバイトの立場でありながら、学生からのアンケートデータを収集分析して社内に向けてプレゼンをしたり、いろんなタスクを任されてかなり好きにやらせてもらっていました。ちなみにその時、就職ジャーナルの編集長を務めていたのがドコモでiモードを一緒に企画開発した松永真理さんでした。

写真
松永さんとは学生時代からのお知り合いだったのですね。そのままリクルートへは就職されなかったと。
夏野

ええ。リクルートは確かに面白い会社でしたが、私はエスタブリッシュ志向だったので(笑)、もともと就職するつもりはありませんでした。幸い、私が就職活動をしていた頃にバブル経済が始まり、どこでも行きたい企業を選べるような状況だったんです。でも例えば都銀はカルチャーが合わないと感じていましたし、総合商社は私と似たような人間がたくさんいて目立てないだろうなと。それに銀行や商社は20代では地方に配属されることがほとんどで、あまり気が進まなかったんですね。その点、東京ガスは転居を伴う異動がなく、しかも留学制度があったんです。その頃、海外に留学してビジネスを学びたいという思いがあり、ドメスティックな東京ガスなら英語を話せる人間もあまりいないだろうから、銀行や商社に比べればチャンスが多いんじゃないかという思惑もありました。

――
20代のキャリアを東京で積むことと、地方で積むことにはどういった差を感じられていたのでしょうか。
夏野

大手企業に入ると、おそらく現場では最初の3年ぐらいはきっとどの会社でも同じような経験しか積めないだろうと考えていました。でも、逆にそれは自分にとってチャンスじゃないかと。その最初の数年間で自分を高められれば、同年代の人間と差がつけられる。私は学生時代に異業種勉強会を立ち上げて、その幹事を務めていたんですが、その勉強会を通して大学の外にも自分のネットワークを築いていました。自分を高めるにはこのネットワークを最大限活用することが最も有効で、それにはやはり東京にいなければと考えました。 あと、これはキャリアということではないのですが、私の父親が保険会社で転勤族だったんですね。父を見ていると、転勤のせいで自分や家族の人生が意図せず会社に染まっていく。そうした生き方を軽蔑していたわけではありませんが、会社都合で個人の人生が左右されるのことには幼い頃から疑問を感じていました。

丸山
当時はまだ終身雇用が一般的だったと思いますが、その頃から夏野さんは自立したキャリアを志向されていたのですね。
夏野

自分をしっかりと持った上で、会社とは対等に渡り合っていくべきではないかと。だから、東京ガス入社後もいろいろと社外と関わっていたんです。いまだから白状しますが、実は新人研修の3か月間、引き続きリクルートでバイトしていたんです(笑)。要領が良かったからか新人研修を簡単にこなせたんですが、ちょっと物足りなくて就業後や週末にリクルートに通って仕事をやらせてもらっていました。でも東京ガスの新人研修後に配属になったのが本社の新規事業部門でして。そこで取り組むことになったのは、都市全体のエネルギーシステムを設計構築して事業化するという、東京ガスにとっても新たな試みでした。当然ながら社内にはノウハウがなかったので新人の私でも主導権を持って事業に関わることができ、そうこうするうちにどんどん忙しくなり、リクルートで働いている場合じゃなくなっていきました(笑)。

――
東京ガスでも若い頃から頭角を現していらっしゃったのですね。
夏野

いろんな業務改革もやりましたね。たとえば、その事業部ではエネルギーシステムをシュミレーションするソフトを何千万円もかけてBASICで開発していたのですが、やたらと処理に時間がかかり、扱いにくいことこの上なかった。実は、私は中学の頃からコンピュータに馴染みがあって、学生時代もずっと趣味でプログラミングしていた、いわゆるコンピュータオタクで、そのソフトをもっと使いやすくしようとほとんど作り直したこともありました。また、当時は手書きだった提案書をパソコンで簡単に作成できるようにしたことや、この事業に携わるうちに建築や都市計画にも精通し、専門誌の『新建築』のアイデアコンペで入選したこともあります。こうして実績を上げ、そのご褒美として目標としていた海外留学の機会を与えてもらえることになりました。

丸山
東京ガス時代、夏野さんはペンシルバニア大学ウォートン校に留学されていますが、そちらを選ばれたのはどうしてですか。
夏野

留学するからには、やはりトップレベルの大学に行きたいという思いが一つですね。当時、大手の金融機関などがこぞってMBA取得のために社員を海外に派遣させていましたが、東京ガスは留学支援体制があまり充実していなかったんです。そこで意識していたのはやはり『どうすれば自分を差別化できるか』ということでした。ハーバードやスタンフォードには、おそらく私のようなキャリアの人間がたくさんいるだろう。一方、ウォートンは金融専門のスクールで、他の人とは違う経験ができるかもしれない。いわば「穴狙い」でしたね。

丸山
きわめて戦略的にご自身のキャリアを選択されている印象を受けます。
夏野

結果的にはウォートン校を選んだことが大きな転機になりました。当時はインターネットの黎明期で、私が留学した時にWebブラウザのNetscapeが登場し、米国のYahoo!が事業を開始したんです。そうした社会の変化を捉えて、ウォートン校ではインターネットがビジネスに与える影響を考察するカリキュラムがいち早く設けられていたんですね。たとえば銀行のATMがネットに繋がるとどんなことが起きるのかとか、インターネット×ビジネスにおいていろんなテーマで議論する機会があり、その時心の中で『キターッ!』と(笑)。先ほどお話した通り、私はコンピュータオタクで学生の頃からプログラミングが趣味でした。そして自分の価値を高めるためのビジネスを学びに来た米国で、その趣味と実益が合致した。まさにこれが私の生きる道だ!と。

自分で築いたネットワークから、いろんなチャンスが巡ってきた。

自分で築いたネットワークから、いろんなチャンスが巡ってきた。

丸山
ウォートン校への海外留学が、夏野さんがインターネットビジネスに傾倒するきっかけになったのですね。
夏野

留学から帰国したのが1995年で、当時日本ではまだインターネットはそれほど普及していませんでした。そこで東京ガスに勤務しながら、週末に社外でネットビジネスの勉強会を開催していました。そこである方から「面白い会社がある」と社長を紹介されたのが、ハイパーネットを起ち上げた板倉(雄一郎)さん。これも私の人生の大きな転機になりました。私との最初の会合で板倉さんがセッティングしたのが、何と六本木の高級クラブ(笑)。そこで初対面からお互いに威勢のいいことを言い合っていたのですが、ほんの1時間ほど過ごして会計になった時、板倉さんが現金でポンと凄い金額を払っていたんです。そのシーンが衝撃的で、私のような給与所得者じゃ絶対にこんな金額は払えない。やはり自分で事業を興さなければとそこで強く思いましたね(笑)。その数か月後に板倉さんから呼び出されてハイパーシステム構想を聞かせていただき、非常に興味を覚えて手伝うことにしたのです。

――
当初は東京ガスに在籍されながら、ハイパーネットのビジネスに関わっていらっしゃったのですか。
夏野

ええ、当時は東京ガスで豊洲地区の大規模な開発プロジェクトを担当していまして、夜間や週末に板倉さんの会社に行って事業を企画していました。その頃はまだマザーズも立ち上がっておらず、国内で資金調達するのが難しかったこともあり、同時にアメリカにも進出してNASDAQに上場しようと目論んでいたんです。そこで有休を取って渡米し、かつてお世話になったウォートン校の教授に相談したところ、広告収入をベースにしたインターネット接続のビジネスモデルは米国にもまだないということで、これはアメリカでもいけると。こうして米国でも事業の足掛かりを作り、これからが本番だというタイミングで、板倉さんからハイパーネットに本気で参画するのかどうか決断を迫られ……悩みましたが、このビジネスの半分は私が創ってきたという自負がありましたし、副社長のポジションで迎え入れてくれるということで、ここが勝負どころだとハイパーネットに転職を決断しました。そこからはまさにジェットコースターに乗っている感じでした(笑)。

丸山
その後、ハイパーネットは経営が行き詰まって破綻する事態になりました。このときはどのような思いだったのでしょう。
夏野

きっかけはアジア経済危機でした。銀行のBIS規制が厳しくなり、急に風向きが変わったんです。ハイパーネットも貸し剥がしに遭って、その時、資本の恐ろしさを痛感しました。実は3年後にハイパーネットと同じビジネスモデルでライブドアが赤字で上場しているんです。いま思うと我々はちょっと時期が早すぎた。ただ、結果的に倒産してしまったものの、そこで経験できたことは私の大きな財産になりました。当時、ハイパーシステムの広告営業で国内のいろんな企業を回っていたんですね。まだ日本ではオンラインモールもオンライン証券も登場しておらず、インターネットでビジネスをしている企業などほとんど存在しなかったなかで、営業活動を通してネットビジネスに前向きな企業を個人的に把握することができた。そしてその知見は、iモードを立ち上げた時に大いに役に立ちました。ハイパーネット時代に開拓しようとしていたクライアントが、iモードの最初のコンテンツプロバイダーになってくれたのです。

丸山
あぁ、そこが繋がってくるのですね。NTTドコモのiモードの開発に参画されたのは、松永真理さんからのお誘いだとうかがいました。
夏野

ハイパーネットが行き詰まった頃、以前から親交のあった真理さんから「ドコモに転職するから」と連絡があったんです。何をやるのかうかがったところ、携帯とインターネットを繋げるらしいと聞いて、あぁその手があったかと。ハイパーネットは1年間でユーザーを30万人集め、当時のISPでは最大だったのですが、広告ビジネスを成立させようとすると30万じゃあまりに母数が少ないんですね。それが事業のネックでもあった。でも携帯をネットに繋げれば膨大なユーザーを獲得できる。そこに大きな可能性を感じ、真理さんから手伝ってほしいという依頼を受けドコモに転職することを決意しました。

丸山
ドコモ時代の夏野さんのご活躍ぶりについては、いろいろなメディアで紹介されていますが、振り返られていかがですか。
夏野

iモードは、私がドコモに入社した時に描いたペーパー通りに展開されているんですよ。最初から、いまで言うアプリをダウンロードできるにように機能を拡張したいと考えていましたし、そのプラットフォームをJavaで実装したいとシリコンバレーに飛んで当時のSun MicrosystemsのCEOとも直に交渉しました。また、将来的には携帯で決済できる機能も想定していて、それを形にしたのが「おサイフケータイ」でした。後半は、通信会社からの脱皮を図るべく、通信収入に加えてファイナンスでも収入を上げようと、おサイフケータイにクレジット機能を付けることを画策しカード業界にアプローチしたのですが、我々の取り組みは既存の業界秩序を崩すことになりかねず敵も多かった。そんななか、業界トップを狙っている二番手の三井住友なら手を組めるチャンスがあるのではないかと考え、彼らを口説いて一緒に創り上げたのが「iD」でした。このプロジェクトもとても印象に残っています。

丸山
そこでも一手二手先を読み、戦略的に行動されているのですね。そうして夏野さんはiモードで大きな成果を上げられて、その後、若くしてドコモの執行役員も務められています。
夏野

あれは私の実力が認められたわけでなく、政治的な配慮もあったのだと考えています。当時、iモードの開発責任者である榎(啓一)さんと二人三脚で事業を進めていて、社内での我々のプレゼンスも非常に大きかった。でもそれが面白くないと思う上層部もいるわけですよ。もう嫉妬と怨嗟が渦巻いていて、まず榎さんがiモードの開発から外れて関連会社の社長になり、そこで私まで外してしまうと対外的な広報役がいなくなるので執行役員にしておけと。榎さんが外れたタイミングに私も辞めようとしたのですが、榎さんから「いまいるメンバーたちが困るから、とりあえず3年はやってくれないか」とお願いされて、もうしばらくiモードの部隊を率いることに。でも結局、社内で認められることはなかった。当時、GoogleのCEOのエリック・シュミットが会いに来て、『君たちが作り上げたiモードは素晴らしい。まさにGoogleのためにあるサービスだ。GoogleのOSを無償で提供するので、ぜひiモードで展開してほしい』という直々に要請を受けたんです。これは凄いことだとテンションが上がったのですが、社内にテクノロジーへの理解がなく『そんな訳の分からないものは使えない』と大反対され……そんなことが積み重なってモチベーションを失い、ドコモを離れる決意をしました。後半はいろいろとうまくいかないこともありましたが、エリック・シュミットに認められたことはいまでも誇りに思っています。

10年前の私ではなく、いまの私だからできることをやりたい。

10年前の私ではなく、いまの私だからできることをやりたい。

――
ドコモを退社された後は、各方面にて同時並行でご活躍されていらっしゃいますが、こういった働き方はとても個性的に感じます。
夏野

おかげさまで、ドコモを辞めるとすぐにあちこちから社外取締役のオファーをいただきましたし、日本のインターネット技術の権威である慶應義塾大学の村井(純)先生からもお声がけいただいて、慶應の大学院で特別招聘教授を務めることになりました。テレビ出演の依頼も増えて、メディアで意見を語る機会もいただいていますし、50代に入ってからは政府系の仕事の比重が高まり、いまはIPA(独立行政法人 情報処理推進機構)の未踏事業や、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会のメディア委員会にも参画しています。そのうえ子供の学校の後援会会長まで引き受けることになって、本当に忙しいですね(笑)。

丸山
お話をおうかがいしていると、夏野さんは目の前の仕事をしっかりやり遂げ、そこでの実績と信用をもとに、新しいチャンスを次々と得ているようにお見受けします。また、本業以外で築かれたネットワークも、後々ご自身の仕事に繋がっていらっしゃいます。
夏野

確かにプライベートで築いた人脈が仕事に活きたこともありました。かつてドコモ時代に「おサイフケータイ」を起ち上げた時、FeliCa方式のテクノロジーの採用を巡ってソニーと交渉が難航したことがあったのですが、その時に力になってくださったのが久夛良木(健)さんでした。久夛良木さんとはそれまで仕事上のつきあいはなく、あるプライベートの会合で知り合い、お互いに美味しいものが好きで意気投合したんです(笑)。それで久夛良木さんに相談したところ、当時の会長の出井(伸之)さんとの面談をセッティングしてくださり、ドコモとソニーでFeliCa技術普及のための合弁企業を設立するところまで一気に話が進んで……久夛良木さんがいなかったら、おそらくFeliCaを採用していなかったでしょうね。

丸山
夏野さんはご趣味もたくさんお持ちですね。
夏野

はい。自分が関心ある領域なら、どんどんお金を使って究めたほうがいいと思っています。究めていくプロセスでは、貴重な経験や人脈、知見が得られることが多く、それは自分の大きな財産になる。たとえば私はクラシックが好きなのですが、それが高じて東京交響楽団の理事をやることになり、コンサートの会場で松竹の常務の岡崎(哲也)さんと親しくなり、その縁で私が取締役を務めるドワンゴで松竹とコラボした歌舞伎イベントを仕掛けるに至ったこともありました。

――
夏野さんほどのキャリアをお持ちだと、自分で事業を興すことも十分に可能かと思います。起業をお考えになられたことはなかったのでしょうか。
夏野

もちろん起業を考えたこともありましたが、いまはその気持ちはまったくないですね。幅広くさまざまな領域に携われるいまの立場のほうが、社会に対して自分の価値を発揮できると考えています。ネットビジネスに黎明期から関わっている私だから多方面に語れること、提案できることがまだまだたくさんあり、今の立場だからこそ政策へ提言もできたりする。いま日本の産業界は、新陳代謝があまり進まずにここまで来てしまった。この状況をあらゆる角度から打破していくチャレンジのほうが、起業してひとつのサービスを創るよりも私の個性を活かして社会に貢献できるのではないかと考えています。いま振り返ればですが、私はその時々で自分だからこそ果たせる役割とは何だろうか、ということを常に意識しながらキャリアを重ねてきたように思います。

丸山
それが夏野さんならではの生き様なのですね。
――
何者にも迎合しない非常に魅力的な生き方と感じます。
夏野

10年前の自分でもできることをやるのではなく、この10年で積み上げてきたことを使って、いまの私だからこそできることをやりたい。そんな思いを強くしたのは、やはりドコモで味わった経験が大きいですね。もしあの時、iモードでGoogleを従えていたら、ネットサービスの世界を日本が主導できたかもしれない。それが果たせなかったのは、日本の企業の経営者に問題がある。経営者がもっとグローバルな視点をもって多角的に判断できれば、日本企業はまだまだ世界で勝てる。それを説いて政策に反映させることが、まさにいま私がやるべきことだと思っています。

丸山
夏野さんのこれまでのご経験を踏まえ、いまを生きるビジネスパーソンのみなさんに何かアドバイスをお願いします。
夏野

新しいことに「食わず嫌い」をしないことが大切だと思います。特に社会のリーダーを志しているような方々は、いまの時代、新しいテクノロジーの「食わず嫌い」は絶対にダメです。これは私の原体験からなのですが、大学時代、マイクロソフトからリリースされたMuliplan(Excelの前身である表計算ソフト)に触れ、もの凄く衝撃を受けました。その時、私はFORTRANで経済解析のプログラムを一生懸命作っていたのですが、Muliplanを使えば関数を入れるとすぐに答えが出る。いままでの私の努力は一体何だったんだと。それからはテクノロジーにとにかく貪欲であろうと、新しいテクノロジーサービスが登場すると真っ先に使うようにしています。TwitterもFacebookも最初期からのユーザーですし、とにかくまず使ってみて、自分のスタイルに合わなければやめればいい。そうした姿勢が、いまの私を築き上げたのだと思っています。新しいテクノロジーを使いこなすのに年齢を言い訳にするのはナンセンスです。「食わず嫌い」をせずにまず試してみる。すべてはそこから。私自身も、そうして自分にしかない価値を常に磨きこみ、その価値を発揮してどこまで社会に貢献できるか自分をアップデートしながら勝負していきたいですね。

※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。

TURNING POINTの最新記事をお届けします。

インタビューを終えて

世界初の携帯電話を利用したインターネットビジネスモデル「iモード」を立ち上げ、その後多数の法人、団体の社外役員やアドバイザー、そして慶應義塾大学では特別招聘教授も務められる夏野剛さんにそのビジネス人生における転機と考え方についてお伺いさせていただきました。昨今、メディアを賑わせている副業解禁や働き方改革といったワード。その本質は「一つの組織に縛り付けられずに、自らの意思で社内外にチャンスを掴みにいく」という、自らの意思によるキャリア選択のオープン化と活性化であると考えますが、夏野さんは遥か以前から、自身を差別化するために世間的な価値基準ではなく、自らの意志と価値観に従った「戦略的キャリア選択」を為されていらっしゃいました。キャリア、人生という不可逆な道において、世間的な価値基準ではなく自らの価値観に従った生き方をする、というのは言うは易しですが実行するのは容易ではありません。しかし、夏野さんの語り口からはその生き方の選択に気負いの欠片すら感じられませんでした。10年前の自分ではなくいまの自分だからこそできることをやる、というポリシーのもと、自身が社会に対して為せることを広い視野で考え実行する。過去の苦いご経験をも糧にされ、自分にしか出来ない社会への貢献をし続ける夏野さんが、この先どのようにご自身をアップデートされていくのか僭越ながら興味の尽きないインタビューとなりました。夏野さんの生き様を知った若い世代が、もっともっと自分らしく自分にしかできない社会への貢献を目標に生きていく。そのような世の中になっていくことを願ってやみません。貴重なお話をありがとうございました。

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