今回のコラムを書くきっかけは、学生時代からの親友との何気ない会話でした。
久しぶりに集まった席で、彼が少し照れくさそうに言いました。
「おれ、社長になっちゃった」と。
一同どよめきましたが、よくよく話を聞いてみると、グループ会社の社長であり、社印も渡されておらず、意思決定の権限も限定的とのこと。すると友人たちから一斉に「それ、完全に“なんちゃって”じゃないか!」と総ツッコミが入る。そんな他愛もない笑い話です。
ただ私は、そのやり取りを聞きながら、妙にリアルな感覚も覚えていました。
肩書と実感は、必ずしも一致しない
日々の仕事の中で、転職サイトや企業ホームページに掲載されたCXOや役員のプロフィールを数多く拝見します。素晴らしいご経歴で、大きな責任を背負っている方々です。
一方で、転職マーケットの視点から見たときに、「この肩書をどのように捉えれば良いのだろうか」と考えさせられるケースがあるのも事実です。
知人同士で立ち上げた数名規模の会社や、まだ成長途上のスタートアップにおけるCXOや役員。実際にお会いすると、「肩書はこうですが……」と前置きを入れて謙遜されることも少なくありません。
IPOや事業売却を果たし、一定の資産を得た方であっても、「世の中にたいして大きなインパクトを残せたとは思っていない」と率直に語られることがあります。
はたから見れば華やかな成功でも、当人の内面の実感は必ずしも一致しない。
肩書という外から見える評価と、自分自身の内側にある納得感。
そのあいだには、思いのほか大きな隔たりがあるように思います。
肩書よりも、何を成すか
急成長企業やいわゆるメガベンチャーを見渡すと、肩書こそCXOではないものの、スタートアップのCXO級の実力を持つ人材が数多く在籍しているケースがあります。著名な起業家がそうした企業に参画し、事業を力強く推進している事例もあります。
実際、スタートアップでのCXOという肩書を手放し、タイトルにこだわらず転職し、いきいきとキャリアを築いている方々を、私は何人も見てきました。
それは肩書を下げたのではなく、本質的な価値貢献ややりがいを重視した選択だったのだと思います。
肩書はあくまで役割のラベルにすぎません。
実際に何を動かし、どんな意思決定に関わり、どのような責任を負っているのか。
結局は、何を成しているのか。
そこにこそ意味があるのではないでしょうか。
肩書の先にある意味を問う
日本では、海外のビッグテックのような巨大ベンチャーがなかなか生まれない、と言われて久しいです。
もし、スタートアップで経験を積んだCXOクラスの人材が、将来性の高い企業に集中的に集まったとしたらどうでしょうか。より大きな挑戦が生まれ、日本発の有力な企業が育つ可能性もあるのではないか。そんな期待を抱くことがあります。アクハイアリングを伴うロールアップ戦略が注目される背景にも、こうした期待があるのかもしれません。一方で、買収後にロックアップ期間を終えると、多くの幹部が去っていくのも現実です。
肩書や経済的成功と、長期的に実現したい志。
短期的な成果と、心から納得できる歩み。
それらが常に同じ方向を向いているとは限りません。
20代から30代前半のうちは、「いつかは経営幹部に」「プロ経営者になりたい」と志すことは健全な欲求だと思います。その立場に立って初めて見える景色も、確かにあります。
では、一度そのポジションに到達したあと、人は何を求めるのでしょうか。
キャリアの終盤で、どのような状態を幸福だと感じるのでしょうか。
最近、そうしたご相談を受ける機会が増えました。
肩書をどう得るかではなく、その先にどのような意味を見出すのか。
私はその対話の時間に、強い高揚感を覚えます。
肩書はあくまで肩書であって、実際は何をやるか。
個人のキャリアの充実と、ご縁をいただいたクライアント企業の発展。
その両方を支援し続けることこそが、私自身の役割なのだと、あらためて感じています。
(2026年3月23日)