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Turning Point 転機をチャンスに変えた瞬間~ビジネスの現場から~

医者になるか。経営者になるか。大切なのは「覚悟」を決めること。 私はこれからも、自分が掲げたビジョンを追い求めていく。 医者になるか。経営者になるか。大切なのは「覚悟」を決めること。私はこれからも、自分が掲げたビジョンを追い求めていく。 : 株式会社メドピア 代表取締役社長(医師・医学博士) 石見 陽氏

「集合知により医療を変革する」というビジョンを掲げて、医療×ITという独自のビジネスモデルで成長を続け、2014年6月には東証マザーズへの上場も果たしたメドピア。このメドピアを創業した石見陽氏は、現役の医師という変わった経歴の持ち主だ。石見氏はなぜ、この事業を立ち上げ、経営者としても力をふるうようになったのか。その決断の背景を語っていただいた。
株式会社メドピア 代表取締役社長(医師・医学博士) 石見 陽氏

石見 陽氏

1999年、信州大学医学部を卒業し、東京女子医科大学病院循環器内科学に入局。 研究テーマは、血管再生医学。 2003年12月に若手医師のネットワーク「ネット医局」を設立し、代表に就任。 2004年12月に株式会社メディカル・オブリージュ(現メドピア株式会社)を設立。 2014年6月に東証マザーズ市場へ上場。現在も、一週間に一度の診療を継続し、医療現場に立つ。 日本内科学会認定内科医。

自分は流されやすいタイプ。意志を持って起業したわけじゃない。

そもそも石見さんは、学生の頃から「ビジネスをやりたい」というお考えがあったのですか。
いえ、そうした気持ちはまったくありませんでした。医者を志していましたし、とにかく国家試験を現役で通ることが学生時代の大きな目標でした。ただ、パソコンが好きで、在学中から独学でホームページを制作したり、あるいはブログで日記をつけたりと、早くからSNSの走りのようなことに興味を持っていました。その経験は、いまのビジネスに何かしらつながっているかもしれませんね。あと、英語も勉強しました。長野県の松本という狭い地方都市で暮らしていたのですが、駅前でデートすると必ず知り合いに遭うという有様で(笑)、そうした環境に閉塞感を覚えて、自分の世界を広げたいと思っていて、そのためのツールがパソコンや英語だったんですね。
石見さんは医学部を卒業されて東京女子医大に入られますが、当初は医師として臨床の道に進もうとお考えだったのでしょうか。
ええ。私は1999年に東京女子医大の循環器内科に入局し、心臓カテーテルのスペシャリストを目指していました。その領域を究めようと大学院に進んだのですが、東京女子医大でカルテ改ざんという不祥事が起こり、患者さんがまったく来なくなってしまったのです。専門医として力を振るおうと意気込んでいた矢先に、出鼻をくじかれてしまった格好で……そんな折、東海大学の方から『研究をやらないか』とお声がけいただいて、そちらで血管の再生医療の研究に取り組むことになりました。それまで臨床に携わっていた時はスケジュールに追われて忙しかったのですが、研究活動は比較的余裕があって、空いた時間に知人に誘われて異業種交流会に参加したのです。
医師の方が異業種交流会に参加されるというのは珍しい気がします。
はい、そうした場に医者が参加するのは珍しかったようで、けっこう注目されました。私自身も違う業界の方々と話をするのは楽しかったですし、そうした交流のなかで『医者のビジネスって世の中にあまりないよね』とまわりからうまく祭り上げられて(笑)、だんだん起業を意識し始めたという感じです。もともと新しいことを考えるのは好きでしたし、いま世の中に足りないものを企画していくのは面白いなと。で、当時、「医者の人材紹介会社への一括登録」というサービスがまだ世の中になかったことに目をつけて、これを事業化してみようと仲間二人と一緒に2004年の末に会社を立ち上げました。
いろいろな偶然が重なって、石見さんは起業することになったのですね。
そうなんです。自分はもともと流されやすいタイプで、この時も特に強い意志をもって起業したわけじゃないんです。正直に言うと、このサービスなら楽に立ち上げられるな、というぐらいの気持ちでした。でも、実際にスタートアップする段になると、やはり大変で…一括登録先の人材紹介会社を開拓する時も、ビジネス経験などまったくなかったので、プレゼン資料を作ってお客様先を回っても全然相手にしてもらえず、本当に苦痛で楽しくなかったですね。
それでもやり遂げたのは、何がモチベーションになっていたのですか。
一社二社断られたからといって投げ出してしまうのは、自分が負けた感じがして、それだけは嫌でした。「5社契約できればスタートしよう」と決めて、とにかくやり切ろう。それが果たせなかったら諦めようと、当時はそんな気持ちでしたね。努力のかいあって最終的には人材紹介会社を11社集め、2005年の3月にサービスをローンチすることができました。