「日本の30代、40代を熱くしたい」日頃この世代の方々とお会いしていてずっとこんな思いがありました。
そんな中この思いに賛同していただいたお二人(メジャーリーグでエージェントをされている三原徹氏と、
ノンフィクション作家の平山譲氏)のご協力を得て、ようやく実現した企画が「転機をチャンスに変えた瞬間」です。
第一線でご活躍されている方にも転機は必ずあったはずです。
その転機でチャンスをつかんだ、ピンチをチャンスに変えたからこそ今の活躍があるのだと思います。
その瞬間にはたらいたエネルギーの根っこにあるもの、ものすごいプレッシャーの中精神を支えたものとは。
ご登場いただく方々のメッセージを読んで、みなさんが熱く、熱くなっていただくことを強く祈念しております。クライス&カンパニー 代表取締役社長 丸山貴宏

過去でしかなかった「野球」を、いつか職業にできたら、という密かなる夢。未来で叶ったのは、新球団設立という大仕事だった。

第5回 プロ野球球団代表 米田純さん

2009年3月30日

インタビュアー 丸山貴宏

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米田純さん
  • PROFILE
    米田純(よねだ・じゅん)
  • 1963年 神奈川生まれ 小学校3年生より野球を始める
  • 1979年 神奈川県立平塚江南高校に入学 軟式野球部で関東大会ベスト4入り
  • 1982年 早稲田大学教育学部教育学科体育学専修に入学 体育会準硬式野球部に所属
    東京六大学リーグ戦優勝3回、全日本選手権優勝1回
  • 1986年 株式会社西武百貨店に入社 池袋西武紳士服売場に配属
  • 1990年 池袋西武営業企画部に異動。各種プロモーションをプロデユース。
  • 1994年 本社店舗運営部営業分析課に異動。全32店舗の営業数値分析業務を遂行する。
  • 1998年 つくば西武販売促進課長として赴任。地方の標準店舗の経営に携わる。
  • 2002年 本社営業企画部に異動。
  • 2003年 楽天株式会社に転職。部長として既存顧客マーケティング部署の立ち上げに携わる。
    「楽天ポイント倶楽部」「ポンカンキャンペーン」などポイントを活用した営業プログラムや仕組みを構築。
  • 2004年 9月より「楽天野球団準備室」と兼任。50年ぶりのプロ野球新規参入手作業に携わる。
    11月に新規参入決定後、取締役チーム統括本部長兼球団代表に任命される。
Next update 米田純氏
「悔いの残る野球人生」からの出発。

2009/3/30

未来を大きく変える転職への勇断。

2009/4/6

球団代表としての苦悩と歓喜。

2009/4/13

個人の目標から、夢の共有へ。

2009/4/20

「悔いの残る野球人生」からの出発。

とことん野球がやりたかった10代の米田さんは、高校では甲子園を諦め、大学でも硬式を諦め、選手としては悔いが残る野球人生を送ったという。早稲田大学の準硬式野球部で選手活動を終えたのち、野球に関わる仕事ができればと、西武百貨店へと就職。だが、入社当初はスポーツカジュアル販売の仕事に就き、その後も、プロモーションの営業企画、本社の営業分析と、野球とは無縁の道を進むことに。徹夜をしても企画書を一行も書くことができなかった若かりし日、そんな米田さんを前進させたのは、手探りしながら、一つひとつのことを真剣に学びとってゆく姿勢と、いつかは野球を仕事にしたいという、「捨てきれない夢」への望みであった。東北楽天ゴールデンイーグルスの球団代表の、転機をチャンスに変えた瞬間とは──。

「いくつになっても野球が好きでしたが、僕が生きていく道は別にある、自分にそう思いこませていました」

丸山:
まず、米田さんの「野球」との関わりからお聞かせいただけますか。
米田:
小学生のときに住んでいた茅ヶ崎で、スポーツ少年団に入ったのが始まりです。その後、二宮大磯リトルリーグで硬式野球を経験し、結構強いチームだったので、関東大会に出場したりもしました。野球は楽しかったですし、小さな頃はピッチャーでブイブイいわせていたので(笑)、高校に入ってからは甲子園を目指したいと思っていました。中学でもシニアリーグで硬式野球を続け、高校は早稲田実業高に進学したかったんです。当時は思いきり野球をすることしか考えていませんでした。しかし、家庭の経済的な理由から、我慢して県立高に入りましたが、その高校には硬式野球部がなかったんです。大学は早稲田大学に進学し、硬式野球部ではなく準硬式野球部に入りました。そこでは4年間野球を全うして選手としては終わりましたが、自分としては、高校では甲子園を諦め、大学では硬式を諦めているので、プレーヤーとしては悔いが残る野球人生だったと思っています」
丸山:
就職先を決めるにあたり、どのような選択をされたのでしょうか。
米田:
米田純さん僕はしつこくて、自分の中で、野球というものを切ってしまうことができなかったんです。野球にたずさわる仕事がしたい、そればかり考えていました。当時、百貨店のスポーツ館というのが流行っていたんですね。西武百貨店のスポーツ館にもいくつものプロジェクトがあって、その中には野球用品などの職人のような仕事があったんです。グローブやスパイクを直したり、少年野球チームをプロデュースしたり。早稲田大学時代、先攻が体育学だったこともあり、とにかくスポーツに関する仕事をしようと。ところが、いざ西武百貨店に就職してみると、配属がスポーツカジュアルだったんです。僕なんか、服は学ランで、あとはジャージかユニフォームしか知らないような若者で、洋服に関する知識なんてまったくありませんでした(笑)。だから、シャツの歴史などを一から学んで勉強したりしました」
丸山:
その後も野球とは無縁のお仕事が続きました。やりたいことと現実とのギャップに、どのように対処されましたか。
米田:
次の配属は、池袋西武の営業企画でした。年度最大のクリスマスのプロモーション企画を任されたんですが、僕は野球しかやってこなかったような人間ですから、文章を書くということが不得手でした。先輩や同僚たちは、思い思いの企画をすらすらと文面にしているんですが、僕は一行も書けない(笑)。結局、みんなが帰宅してからも会社に残り、徹夜して、それでも一行も書けなかったことを憶えています。その池袋西武に4年間いたのち、本社の営業分析へ異動になりました。今度は文章ではなく、数字ばかりの世界。数字アレルギーだったので、一日中数字とにらめっこする仕事は辛かったです。その後も、筑波西武の販促や本社の営業企画など、野球とは無縁の仕事が続きましたが、一方で企画プロデュースや数値分析など小売におけるマーケティング系のスキルは着実に身についていました。でもライオンズセールだけは、誰にも譲らずに自分がやるんだと、楽しんでやらせていただいていました。どこかで野球とつながっていたい自分がいたんだと思います。西武ライオンズ球場(当時)の球場長に、「球団に入りたいんです」などとお話させていただいたこともありました。でもそれは人事的に難しいと真剣にいわれてしまって、がっかりしたこともありました。夢は捨てきれない自分がいるんですが、実生活の中で、いつしか野球が遠い存在になっていきました。いくつになっても野球は好きでしたが、それ以上に僕が生きていく道は別にある、自分にそう思いこませていました。

<来週につづく>

構成/平山譲

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未来を大きく変える転職への勇断。

「悔いの残る野球人生」からの出発。
就職先でも思うように野球に携わる仕事ができず、
異業種への転職を決断し楽天に入社。
しかしそこで予想もしなかったプロ野球参入のビッグニュースが・・・。
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