「日本の30代、40代を熱くしたい」日頃この世代の方々とお会いしていてずっとこんな思いがありました。
そんな中この思いに賛同していただいたお二人(メジャーリーグでエージェントをされている三原徹氏と、
ノンフィクション作家の平山譲氏)のご協力を得て、ようやく実現した企画が「転機をチャンスに変えた瞬間」です。
第一線でご活躍されている方にも転機は必ずあったはずです。
その転機でチャンスをつかんだ、ピンチをチャンスに変えたからこそ今の活躍があるのだと思います。
その瞬間にはたらいたエネルギーの根っこにあるもの、ものすごいプレッシャーの中精神を支えたものとは。
ご登場いただく方々のメッセージを読んで、みなさんが熱く、熱くなっていただくことを強く祈念しております。クライス&カンパニー 代表取締役社長 丸山貴宏

連続する苦悩のなかで掴んだ、輝かしい栄光をもかなぐりすて、挑みつづける、野球道の極みへ。

第4回 石井琢朗さん プロ野球選手

2009年2月23日

インタビュアー 丸山貴宏

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石井琢朗さん
  • PROFILE
    石井琢朗(いしい・たくろう)
  • 1970年栃木県生まれ、プロ野球選手。県立足利工業高校時代は投手として活躍し、甲子園にも出場。
  • 1988年、ドラフト外で横浜大洋ホエールズ(当時)に入団。1年目から初勝利を記録するなど活躍するも、1992年からは野手転向を直訴。その年に三塁手として定位置を奪い、1993年には盗塁王とゴールデングラブ賞を獲得。オールスターにはその後1997年から5年連続で出場。
  • 1996年には三塁手から遊撃手へとコンバート。1997年からは1番に定着し、2001年まで5年連続でベストナインに選出される。
  • 1998年には「マシンガン打線」の1番打者として、初の最多安打、2度目の盗塁王、4度目のゴールデングラブ賞を獲得し、チーム38年振りとなるリーグ優勝と日本一に貢献。同年、球団創設史上初となる最多得点も獲得し、日本シリーズでは優秀選手に選ばれる。
  • 1999年には通算1000本安打、1000試合出場、200盗塁を達成。同年、1試合最多得点となる6得点も記録。
  • 2006年には史上34人目となる2000本安打を達成。投手として勝ち星を挙げた打者としては川上哲治以来2人目、またドラフト外入団選手としても秋山幸二以来2人目となる快挙となる。
  • 2009年シーズンより、広島東洋カープへ移籍。レギュラーの活躍を期待されている。
Next update 石井琢朗氏
ドラフト外入団という「無名」からの出発。

2009/2/23

やりがいを求めて、投手から野手へ「転身」。

2009/3/2

打撃不振と二軍落ちのなかで見つけた「原点」。

2009/3/9

「求められること」の幸せを感じつつ、新天地へ。

2009/3/16

ドラフト外入団という「無名」からの出発。

少年時代からプロ野球選手を夢見て、足利工業高校時代には投手として甲子園出場まで果たした石井琢朗さん。しかし、念願のプロ球団からスカウトされたものの、ドラフトでの指名ではなく、「ドラフト外」で横浜大洋ホエールズに入団することに。大学進学が決まっていたことや、174センチ75キロとプロとしては小柄な肉体が不安視され、周囲からはプロ入りを反対された。それを、人並み以上の努力と、同じ年に入団したドラフト上位の選手たちには負けたくないという不屈の精神で見事はねかえす。1年目にして1軍入りを果たし、同じ高卒新人のドラフト1位指名の谷繁元信選手とのバッテリーで、プロ初勝利も記録した。以後長きにわたり、プロ球界という厳しくも華やかな世界で生き抜いてきた選手の、転機をチャンスに変えた瞬間とは──。

「成功できるかわからないけれど、失敗するともかぎらない。ならばまず、夢を掴んでしまってから頑張ればいいじゃないかと」

丸山:
まず、プロ野球選手になりたい、野球を職業に、という思いが芽生えたのはいつだったのでしょうか。
石井:
僕は小学3年生から本格的に野球を始めて、以来ずっと、プロ野球選手になるのが夢でした。プロに行くなら高校野球で甲子園に出るのが近道で、そのためには県南の強豪校に入ろうと、推薦をもらうために勉強も頑張りました。高校に入学するときの推薦面接では、将来エンジニアになりたいです、と応えてはいたんです。でも本心では、野球をやることしか頭にありませんでした。その野球も、将来的に職業にするというところまでは考えが至っておらず、趣味や特技の延長線上に、プロ野球という世界があるという認識でしかなかったんです。実際に甲子園に出てからも、プロ野球選手になることは、子供が思いえがくような、漠然とした夢でしかなかったですね。しかも、高校3年生のときは、投手としてすっかり自信をなくしてしまっていた時期でもあったので、プロは無理だと自分から諦めてしまって、大学へ推薦入学する道を選択しようとしていたんです。
丸山:
プロ入りについてですが、ドラフト上位指名はおろか、「ドラフト外」での入団には、周囲からの反対もあったと聞きます。まだ10代の頃の決断ですし、迷いや不安もあったかと思うのですが。
石井:
大学進学を考えていた折に、球団スカウトの方から「ドラフト外で」というお話をいただきました。一時は諦めていたプロ入りですが、そうお声をかけていただいたことで、ドラフト外でもいいから夢を掴んでみたいと思い、大学を断ったんです。幼い頃からプロになるために一緒に練習してくれた父は、僕の意志に理解を示してくれました。しかし母には、プロ入りを反対されました。気持ちはわかるけれど、せっかく大学進学が決まっているのに、なぜそれを蹴ってまで安全ではないプロの世界に飛びこまなければならないのかと。僕自身も、迷いや不安はありました。でもどうしても、野球以外の職業に就いている自分を想像できなかったんです。せっかくチャンスをいただいたのに、ここで諦めてしまったら後悔するんじゃないかとも思えましたし。成功できるかわからないけれど、失敗するともかぎらない。ならばまず、夢を掴んでしまってから、がむしゃらに頑張ればいいじゃないかと思えたんです。
丸山:
プロ入りした同じ年には、7人もの高卒ルーキーがいました。ドラフト上位で指名されてきた彼らには負けたくないという気概もあったと思います。そしてプロ入り1年目に、いきなり初勝利を挙げたわけですが、「ドラフト外」からの躍進を支えた裏にはどのような思いがあったのでしょうか。
石井:
高校時代の監督さんが、資料を集めるのがお好きな方だったんです。僕がプロ入りするにあたり、その監督さんが、ドラフト外で入団したり、背丈が低いのに成功したりした過去のプロ野球選手のデータを集めて、僕に贈ってくださったんです。それにはすごく勇気づけられました。過去には、ドラフト外でも、背丈が低くても、偉大な選手がたくさんいたという事実に励まされました。それを見ながら、僕もプロで活躍するために、体力なら自信があるから、1年目からそれをアピールすることで目をつけてもらえればいいじゃないかと考えることができました。他の高卒ルーキーたちには負けたくないという気持ちもあったし、かえってマイナス面だと思われていたことが、プラスに働いたようなところがあったかもしれません。

<来週につづく>

構成/平山譲

NEXT 3月2日(月)
やりがいを求めて、投手から野手へ
「転身」。

やりがいを求めて、投手から野手へ「転身」。
「野球を心から楽しみたい」という自分の心に正直になるために、自らが選択した野手への転身。
ここからが、名球会入りを果たす偉大な野手としての
石井琢朗さんのの始まりであった・・・。
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