「日本の30代、40代を熱くしたい」日頃この世代の方々とお会いしていてずっとこんな思いがありました。
そんな中この思いに賛同していただいたお二人(メジャーリーグでエージェントをされている三原徹氏と、
ノンフィクション作家の平山譲氏)のご協力を得て、ようやく実現した企画が「転機をチャンスに変えた瞬間」です。
第一線でご活躍されている方にも転機は必ずあったはずです。
その転機でチャンスをつかんだ、ピンチをチャンスに変えたからこそ今の活躍があるのだと思います。
その瞬間にはたらいたエネルギーの根っこにあるもの、ものすごいプレッシャーの中精神を支えたものとは。
ご登場いただく方々のメッセージを読んで、みなさんが熱く、熱くなっていただくことを強く祈念しております。クライス&カンパニー 代表取締役社長 丸山貴宏

一度はゲームセットした夢へ。日本人アンパイア、ベースボールの母国で裁く。

第3回 平林岳さん 野球審判員

2008年1月19日

インタビュアー 丸山貴宏

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平林岳さん
  • PROFILE
    平林岳(ひらばやし・たけし)
  • 1966年兵庫県生まれ、野球審判員。中学生時代からプロの審判を目指し、國學院大学卒業後、日本のプロ野球、セ・パ両リーグの審判テストを受けるも、身体検査で裸眼視力が規定に満たずに不採用になる。
  • 1992年、渡米してジム・エバンス審判学校に入学し、日本人初のアメリカプロ野球審判となる。
  • 1993年、パ・リーグからスカウトされ、東京審判部に入局。1999年4月7日には、松坂大輔投手(現ボストン・レッドソックス)のプロデビュー戦の球審を務めるなどした。
  • 2002年を最後に退局し、渡米してジム・エバンス審判学校に再入学。2005年、マイナーリーグで米国球界復帰を果たす。
  • 2007年、ミッドウェストリーグ(ミドルAクラス)のオールスターゲームでも球審を務める。同年7月、アドバンスドAクラスへの昇格を果たし、カリフォルニアリーグの審判となる。
  • 2008年、サザンリーグ(ダブルAクラス)に所属し、シーズン終盤にはチーフクルーとして数試合を担当。
  • 2009年は、日本人初となるトリプルAクラスへの昇格が見込まれている。その場合、日本人審判として初めて、臨時的にメジャーリーグのグラウンドに立つ可能性がある。
  • 現在はアメリカでメジャーリーグの審判を目指す傍ら、日本のFMラジオ局・NACK5でゲスト解説なども行っている。
Next update 平林岳氏
日本で閉ざされた扉を、アメリカで開く。

2009/1/19

スカウトされて「逆輸入」で日本へ。

2009/1/26

忘られぬ夢を追って、ゼロからの再出発。

2009/2/2

見えてきた、メジャーという頂きを目指して。

2009/2/9

日本で閉ざされた扉を、アメリカで開く。

中学生時代から、「選手」ではなく「審判」に憧れ、以来まっしぐらに夢へ向かって前進してきた平林さん。そして大学卒業後、満を持して日本プロ野球、セ・パ両リーグの審判員試験を受験。しかし、知識や技術ではなく、身体的資質である視力不足により不採用となってしまう。けれども、平林さんは諦めなかった。当時はまだ先進的だった視力回復手術を受けてアメリカへ飛び、ベースボールの母国で審判になることを目指した。若きアメリカ人に交ざり、審判学校で学ぶ日々。言語の壁をも越え、彼は、日本人初のアメリカプロ野球審判員となった。メジャーリーグという最高峰に挑むアンパイアの、転機をチャンスに変えた瞬間とは──。

「渡米する際、収入はゼロ、成功する保証もゼロ。それでも自分が好きなことに、とことん挑戦してみたかった」

丸山:
まず、なぜ「選手」ではなく、裏方ともいえる「審判」になろうと決意されたのか、そのきっかけから教えていただけますか。
平林:
もちろん子供の頃は、プロ野球の「選手」になることを夢見ていました。でも中学校で野球をしているときに、プロになるには努力のみならず、人並み外れた才能がなければ無理だと感じてしまったんです。残念ながら、僕にはそれがなかった。レギュラー選手でしたが、たまに試合から外されることもある程度の選手でしたから。つまり、選手としての自分を、早々に見切ってしまったというわけです。そんな折に、テレビでプロ野球の中継を見ていて、プロのグラウンドに立てるのは選手だけじゃない、「審判」という道があるじゃないかと気付いたんです。それからは、野球をやりながらも、審判としてトップになるという目標を自分の中でイメージしはじめました。プロの審判になるなら高校までは野球をしていなければならないだろうからと、甲子園ではなく、審判だけを目指して部活動をしていました。だから練習試合では、誰もやりたがらない審判を、率先してやっていましたよ(笑)。
丸山:
そこまで鮮明に将来像を描いていたにもかかわらず、日本のプロ野球、セ・パ両リーグの審判員試験では、視力不足で不採用に……。ショックであると同時に、就職しなければならないという現実に直面して悩まれたのでは?
平林:
平林岳さん不採用と決まった数日後には、角膜に切れ目を入れて視力を上げる手術を受けていました。悔しいというより、まだ諦めることなんかできない、そう思ったんです。でも、不採用となったわけですから、ぶらぶらしているわけにもいかず、ファミリーレストランの店長候補として就職しました。もちろん、夢を諦めたわけではなく、仕事が夜間勤務だったので、日中は草野球の審判をやって腕を磨いていました。しかし不眠の仕事は体にきつく、1年で退職して一般企業に再就職しました。そして1992年、アメリカには審判学校があって、そこで試験に合格すればメジャーリーグの審判も目指せることを知り、おもいきって渡米したんです。じつはそのとき、自分にケジメをつけるためにアメリカまで行ったようなものだったんです。審判学校で自分の実力を第三者に判断してもらって、もし駄目なら断念しようと。そうしたら、意外にも受かってしまって(笑)」
丸山:
初めてのアメリカでの生活は、慣れないことも多かったと想像できます。しかもマイナーリーグは選手ですら俸給が十分でないと聞きますから、いくらやりたい職業だったとはいえ、苦労も相当だったのでは?
平林:
渡米する際、収入はゼロ、成功する保証もゼロでした。それでも僕は、自分が好きなことに、とことん挑戦してみたかったんです。もしアメリカで失敗しても、何とかして1000万円ぐらいなら日本で稼ぐ自信がありました。その1000万円と引き替えにしてもいい価値が、僕の夢にはあると思っていました。渡米直後は満足に英語も話せなかったんですけど、生活しているうちにいろんなことに慣れていくだろうと楽観していました。でも、すぐに英語が上達するはずもなく、審判を始めて1年くらいはコミュニケーションができずに、しんどい思いをしました。報酬は月給22万円ほどで、楽に暮らせないのはもちろん、給料がもらえるのはシーズン中だけなので、オフには別の仕事をするために日本に戻らなくてはなりませんでした。それでも、自分で選んだ職業ですから、苦労を苦労とも感じずに挑戦できたんでしょうね。ときどき、僕はしあわせ者だと、つくづく思うときがあるんです。なぜなら、ほんとうにやりたい、心から好きだといえる職業に出会うことができたんですから。

<来週につづく>

構成/平山譲

NEXT 1月26日(月)
「スカウトされて「逆輸入」で日本へ。」

スカウトされて「逆輸入」で日本へ。
アメリカの地で晴れて審判になることができた。
そんな矢先、一度は不採用となった
日本のプロ野球からスカウトが・・。
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